阿含経に学ぶ-1(釈迦牟尼世尊の教え) 浪 宏友


マーガンディヤの娘

 これから原始仏典『阿含経』を学ばせていただきたいと思いますが、その前に一読しておきたい経文があります。
 中村 元訳『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫)にある「マーガンディヤ」と題する章です。「スッタニパータ」は、仏教の最も古い経典のひとつとされています。
 この章は、次の経文で始まります。

 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとしたときに)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ」

 釈迦牟尼世尊がこの言葉を発した経緯について、中村 元博士の註釈があります。

 伝説によると、かつてブッダがサーヴァッティにいたときに、マーガンディヤというバラモンが、自分の娘を盛装させて同道し、ブッダの妻として受納するように乞うたときに、ブッダがこのように語ったという。

 申し出を断った釈迦牟尼世尊に対して、高慢なマーガンディヤとその娘は、引き下がることなく二度、三度、懇願したのでありましょう。
 あまりにもしつこいので、釈迦牟尼世尊は、このような強い調子で断ったのでありましょう。
 「糞尿に満ちたこの女」とは、娘の身体のことではありません。父と娘の高慢な見栄と自分本位の欲望に満ちた心が汚いと言ったのです。

マーガンディヤの質問

 きっぱりと断られたマーガンディヤは、釈迦牟尼世尊に問いました。

 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 多くの有力な男たちが求める宝玉にも等しい娘なのに、その娘を欲しがらない釈迦牟尼世尊は、何を考え、何を説いているのかと詰問しました。

釈迦牟尼世尊の答え

 釈迦牟尼世尊はマーガンディヤに答えました。

 師は答えた、「マーガンディヤよ、『わたくしはこのことを説く』ということがわたくしにはない」

 マーガンディヤの問う「見解」とは、主義主張というようなことだと思われます。釈迦牟尼世尊には、いかなる主義主張もありません。
 マーガンディヤが問う「戒律・道徳・生活法」とは修行の道であり、その内容は「ああしなければならない」とか「こうしてはならない」などと決められていることだと思われます。釈迦牟尼世尊は、そういう固定的な修行の道は説かないのです。
 マーガンディヤは「どのような生存状態に生まれかわることを説くのか」と問いました。神々を崇めて祭祀を行なえば、来世は神々のもとに生まれかわるというようなことだと思われます。釈迦牟尼世尊は、そういうことも説かないのです。
 釈迦牟尼世尊の答えは続きます。

 「諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしはみた」

 釈迦牟尼世尊の目的は、「内心のやすらぎ」を得ることです。
 「執着を執着であると知る」とは、自分が持つ執着を自覚することでしょう。
 「諸々の偏見における過誤を見る」とは、先入観・固定観念・誤解などによって犯すさまざまな過ちを自覚することでしょう。
 釈迦牟尼世尊は、自分を省察することによって、執着や偏見に対する固執を捨て去り、内心の安らぎを得たのです。

 マーガンディヤの考える「見解」、「戒律・道徳・生活法」、「来世の生存状態」などは、執着や偏見に固執するところから生まれる妄想なのです。

 この後の経文は割愛しますが、深い執着に満たされたマーガンディヤとその娘には、釈迦牟尼世尊の説法が理解できなかったようです。

阿含経の教え

 阿含経を読み進みますと、釈迦牟尼世尊はここで述べられた通りの教えを説いておられることが分かります。
 そこには、主義主張は見られません。
 ああしなさいとか、こうしてはならないなどという固定的な修行法も説かれてはいません。
 教えの通りにすれば、神々のもとに生まれるなどともありません。
 繰り返し、繰り返し説かれているのは、執着や偏見を滅して苦から脱する教えであり、省察して内心の安らぎを得る実践道です。

縁起の法

 私は、増谷文雄編訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)を中心にして、阿含経を学んでいます。
 この中で、増谷文雄博士は、次のように述べておられます。

 釈尊がブッダ(Buddha、覚者)と称せられるにふさわしい者となったのは、その正覚を成就したその時からのことであり、その正覚を源泉として、そこから、仏教と称せられるもののことごとくが流れ出てくるのである。

 釈迦牟尼世尊の正覚の内容を、増谷文雄博士は、次のように述べています。

 一切の存在を関係性によって生成もしくは消滅するものとして捉える存在論である。

 私はこれを平易に「関係しながら変化する」と表現し、「縁起の法」と呼ばせていただいています。

健康を取り戻したパセーナディ王

 増谷文雄編訳『阿含経典2』(ちくま学芸文庫)に、「大食」と題する経文があります。

 若いころから、釈迦牟尼世尊と親交を結んでいたコーサラ国のパセーナディ王は、そのころ、大量の食事をするのが常となっていました。
 この日、食事を終ってすぐに釈迦牟尼世尊を訪問したパセーナディ王は、釈迦牟尼世尊の傍らに坐しながら、大息をついていました。
 これを見た、釈迦牟尼世尊は次のような偈を歌いました。

 「人はつねにみずから懸念して
  量を知って食をとるがよい
  さすれば、苦しむことすくなく
  老ゆることおそく、寿を保たん」

 パセーナディー王は、なるほどと思ったのでしょう。王のおつきを務めていたウッタラという少年に命じました。

 「ウッタラよ、汝は、世尊のいまの偈を暗(そら)んじて、わたしの食事の時にいつも誦するがよい。そうすれば、わたしは、毎日百銭ずつ汝にあたえるであろう」

 ウッタラ少年は、忠実に使命を果たしたようです。やがて、パセーナディー王は、少量の食事で満足するようになりました。身体もすこやかになった王は、喜びの言葉を発しました。

 「まことに、世尊は、二つの利益をもってわたしを恵みたもうた。わたしは、世尊によって、現在の利益と、未来の利益とをうることができた」

釈迦牟尼世尊の教え

 釈迦牟尼世尊は、パセーナディ王を、健康な状態に導きたいと考えました。
 知性も高く、王という立場にもある人です。さりげない偈のかたちで、パセーナディ王に適合する理法を語りました。これは巧みな方便力です。
 パセーナディ王は理法を得心し、自ら実践して利益を得ました。これは自燈明・法燈明の姿勢です。

 パセーナディ王は、二つの利益を得たと言って喜んでいます。
 ひとつは、現在の健康でありましょう。
 もうひとつは、未来への可能性であり、自信でありましょう。

 釈迦牟尼世尊の教えは、実践する人に、今も幸せであり、未来も幸せになる、豊かな人生をもたらしてくれるのです。