阿含経に学ぶ-2(経営者と中道)    浪 宏友


   二つの極端

 悟りを開いたばかりの釈迦牟尼世尊は、鹿野苑(ろくやおん)で修行する五人の修行者を訪ね、初めて説法したと伝えられています。その第一声とされる経文があります。

「比丘たちよ、出家したる者は、二つの極端に親しみ近づいてはならない。その二つとは何であろうか。
 愛欲に貪著することは、下劣にして卑しく、凡夫の所行である。聖にあらず、役に立たないことである。
 また、苦行を事とすることは、ただ苦しいだけであって、聖にあらず、役に立たないことである。
 比丘たちよ、如来は、この二つの極端を捨てて、中道を悟った。それは、眼を開き、智を生じ、寂静・等覚・涅槃にいたらしめる」(増谷文雄編訳『阿含経典2』ちくま学芸文庫、p.283、「如来所説」)

 修行する人は、二つの極端なことをしてはならないとあります。
 ひとつは、愛欲に執着することです。もうひとつは、わざわざ苦行をすることです。このふたつは、悟りを得るために、何の役にも立たないのです。
 釈迦牟尼世尊は、愛欲と苦行を捨てて「中道」を悟ったとあります。中道を実践すれば、悟りを得ることができるのです。

  釈迦牟尼世尊の経験

 釈迦牟尼世尊の本名は、ゴータマ・シッダールタです。釈迦族の王子として生まれたシッダールタは、王の跡取りということもあって大切に育てられました。最上の衣服、最上の食べ物が用意されました。宮殿が三つあり、冬のため、夏のため、雨季のためのものでした。雨季には、宮殿内で大勢の女性たちに囲まれて過ごしました。こうして、愛欲にふける生活を続けていたのです。

 若き日のシッダールタは、人間のさまざまな苦しみ、老、病、死などの苦しみについて思い悩み、苦から抜け出したいと思いましたが、このような愛欲にふける生活では、何も解決しないことを悟りました。
 この経験が、「愛欲に貪著することは、下劣にして卑しく、凡夫の所行である。聖にあらず、役に立たないことである」という説法につながっているのでありましょう。

 シッダールタは、なんとしても苦から抜け出したい、さまざまな苦しみを解決したいと煩悶しました。ついに父母、妻子と別れて出家し、苦行の道に入りました。六年もの間、これ以上はないというほどの激しい苦行を続けました。しかし、何も解決しません。苦行によっては、苦しみから抜け出すことはできないことを悟りました。
 この経験が、「苦行を事とすることは、ただ苦しいだけであって、聖にあらず、役に立たないことである」という説法につながっているのでありましょう。

 ある日、修行者シッダールタは、突然、苦行をやめました。中道を悟ったからだと思われます。経文に「この二つの極端を捨てて、中道を悟った」とありますが、その瞬間が訪れたのです。
 修行者シッダールタは中道の実践を始めました。乳粥を食して体力を回復し、河に入って身を浄め、大樹のもとで瞑想に入りました。そして「眼を開き、智を生じ、寂静・等覚・涅槃にいたり」、修行者シッダールタから、釈迦牟尼世尊になったのです。

  中道

 「中道」というだけでは内容が分かりませんが、それは聖なる八支の道であると、経文にあります。「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」です。

 正見とは、正しい智慧です。ものごとのありのままを観る智慧であり、ものごととものごとの関係性を観る智慧であり、ものごとの理(ことわり、すじみち)を観る智慧です。
 正思・正語・正業とは、正しい心の振る舞い、正しい言葉の振る舞い、正しい身の振る舞いです。
 正命とは、正しい生活を営み、正しい仕事を行ない、正しい人生を送ることです。
 正精進とは、正しい努力を続けることです。
 正念とは、心に正しいことを思い続けることです。
 正定は、正しいことが身について揺るがないことです。
 この八つの道が、中道の内容です。

  五人の修行者

   釈迦牟尼世尊の説法を聞く五人の修行者は、かつて、修行者シッダールタと共に苦行に励んだ人びとでした。
 ところが、修行者シッダールタは、ある日突然、苦行をやめ、村娘の捧げる乳粥を食し、河に入って身を浄めると、大樹のもとで瞑想に入ってしまいました。苦行に励んでいた五人は、シッダールタは堕落したと見切りをつけて立ち去りました。そして、多くの修行者が集う鹿野苑で、苦行を続けていたのです。

 釈迦牟尼世尊は、そんな五人の修行者に向かって、苦行は役に立たないと断定しました。五人はさぞ驚いたことでしょう。これまで大切に思ってきた苦行を、あっさりと否定されてしまったのですから。
 しかし、中道(八正道)の教えを聞くうちに、なるほどそうだ、その通りだと得心したのでありましょう。
 このあと、四つの聖諦を学び実践するなどした五人の修行者は、自ら願って、釈迦牟尼世尊の弟子になりました。

  経営者と中道

 私は経営コンサルタントですので、経営における中道の実践について考えています。

 この経文においては、「中道」に関するキーワードは「役に立つ」であろうと思います。
 正しい目的を立てる。その目的を達成する。そのために「役に立つ」道が「中道」なのです。そういう観点から、経営における中道を考えることができると思います。

 経営上の正しい目的を確立します。その目的達成に役立つ道を見出し、実践します。それが、経営上の中道であると思います。
 間違った目的を立てたら、そこで中道から外れてしまいます。正しい目的を立てても、目的の達成に役に立たない道を歩んでいたら、中道から外れてしまいます。
 中道から外れてしまいますと、良い結果は期待できません。

 経営者が、よく口にする言葉があります。
 「私は、一生懸命にやってきた」
 「私は、ちゃんとやってきた」
 けれども、経営は傾いています。これはどう考えればいいのでしょうか。

 やってきた内容を聞けば分かります。
 一生懸命にやってきた内容が、中道ではなかったのです。
 ちゃんとやってきたといいながら、中道から外れていたのです。
 中道から外れた経営を長く続けてきたから経営が傾いたのです。

 中道から外れてしまうのは「正見」が働いていないからであり、「正思・正語・正業」ができていないからです。
 ものごとにたいする見方、考え方が誤っていたのです。自分本位の言葉を吐き、自分本位の行動をしてきたのです。
 経営者は、自分のしてきたことは正しいと主張し、自分はちゃんとやってきたと言い張ります。しかし、「あなたは中道から外れてきましたよ」と、現象が答えを出しています。

 経営を立て直すには、経営者が中道に戻るほかありません。自分の見方・考え方や、言動を、改めなければなりません。
 しかし、これまで中道から外れた見方、考え方をしてきた人が、正見に戻るのは容易ではありません。これまで、自分本位の心で、身勝手な言動をしてきた人が、正思・正語・正業に戻るのも並大抵ではありません。

 経営者は焦っていますから、自分を改めることは棚上げして即効性を求め、特効薬を求めます。しかし、中道(八正道)はそういう要望には応えません。そうと分かると、さっさと立ち去ってしまいます。
 中道(八正道)など自分には関係ないと、初めから背中を向ける経営者もいます。
 こうして多くの経営者が、中道(八正道)の入り口で、きびすを返して立ち去ります。
 それでは、経営の立て直しは、遠ざかるばかりなのですけれども………。