阿含経に学ぶ-3(縁起)        浪 宏友


   釈迦牟尼世尊の覚り

 釈迦牟尼世尊の説法について、庭野日敬師は次のように述べておられます。
 「釈尊は、神がかりになって一般の人に理解できないような神秘的なことを言いだされたものでもなければ、ひとりよがりの考えを押しつけられたものでもありません。釈尊は『この世界とはどんなものか。人間とはどんなものか。だから、人間はこの世にどう生くべきであるか。人間どうしの社会はどうあらねばならないか』ということについて、長い間考えて考えぬき、そして『いつでも』『どこでも』『だれにも』あてはまる『普遍の真理』に達せられたのです」(庭野日敬著『法華経の新しい解釈』佼成出版社)

  縁 起

 増谷文雄博士は、『阿含経典1』(ちくま学芸文庫)の「存在の法則(縁起)に関する経典群」の「開題」で、次のように述べておられます。
 「『縁起』とは、申すまでもなく、釈尊の正覚の内容をいう述語である」
 「覚る」とは「奥の奥まで知り尽くすこと」であるとすれば、釈迦牟尼世尊は「縁起」について、奥の奥まで知り尽くしたのです。
 次いで、増谷文雄博士は、「縁起」という言葉の成り立ちを説明してくださいます。
 「それは『縁りて』ということばと『起ること』ということばとが結合して成った言葉である。つまり、なんらかの先行する条件があって生起すること、というほどの言葉であって、それを翻訳して中国の訳経者たちは、『縁起』なる述語を造成したのである」
 そして、増谷文雄博士は、「縁起」という言葉の意味するところを説明してくださいます。
 「詮ずるところ、それは、一切の存在を関係性によって生成もしくは消滅するものとして捉える存在論である」
 「存在論」とは「この世界はこのようなものである」というような理論です。
 釈迦牟尼世尊は、この世界は「縁りて、起る」ことによって成り立っていることを発見したわけです。私たちの言葉で言えば「関係しながら生じたり、滅したりしている」ということです。
 増谷文雄博士は、釈迦牟尼世尊の覚りと教えの関係を、次のように述べています。
 「釈尊がブッダ(覚者)と称せられるにふさわしい者となったのは、その正覚を成就したその時からであり、その正覚を源泉として、そこから仏教と称せられるもののことごとくが流れ出てくるのである」
 釈迦牟尼世尊が説いた教えはすべて「縁起」を源泉としているのです。
 そればかりではありません。釈迦牟尼世尊の教えを私たちに伝えてくださる庭野日敬師、増谷文雄博士の言葉もまた「縁起」を源泉としているのです。
 すると、釈迦牟尼世尊の遠い弟子を自ら任じ、皆さまに仏教をお伝えしようとして私が書き記すことも、「縁起」を源泉としていなければなりますまい。果たしてそうなっているかどうか、はなはだ心もとないものがありますが、私の心身を釈迦牟尼世尊にお預かりいただく心境で、取り組ませていただくほかはないと思っております。

  私の理解

 庭野日敬師による妙法蓮華経の解説、増谷文雄博士が翻訳なさった阿含経、その他の資料を学びながら、私は、次のようなことを考えました。
 当時、釈迦牟尼世尊の周辺では、「この世界とはどんなものか」という設問に対して多くの宗教者や思想家たちが、多種多様に論じていたようです。
 釈迦牟尼世尊は、その一つ一つを吟味し、どれも未完成であったり、欠陥があったりして、生活・人生の寄る辺とできるものは、一つもないことを知りました。
 釈迦牟尼世尊は、ものごとを徹底的に観察し、思索しました。ぎりぎりの努力を重ねるうちに、「この世界では、ものごとが関係しながら変化している」こと、「関係の仕方によって変化の仕方が変わってくる」ことを発見しました。
 釈迦牟尼世尊は、ご自分の発見をさまざまな角度から吟味して、どこから、どのようにつついても揺らぐこともなく、壊れることもないことを確かめ、これこそ真理であると確信しました。それが、ほかならぬ「縁起」でした。
 庭野日敬師の言葉に、「人間とはどんなものか」「人間はこの世にどう生くべきであるか」とあります。釈迦牟尼世尊の当時の宗教者や思想家は、人間についても、さまざまな見解を呈していました。釈迦牟尼世尊は、ここでもまた、その一つ一つを吟味して、いずれも、現実に合わないことを知りました。
 釈迦牟尼世尊は、人を分析して詳しく観察し、人もまた関係しながら変化していることを知りました。
 分析した要素を再び総合して、人と人とが善き関係にあり、善き変化を起こしているとき、幸福であることを知りました。
 「人間どうしの社会はどうあらねばならないか」と考えたとき、自分を大切にするように他人を大切にすることが正しい人間関係であり、正しい人間関係で織りなされている社会が、本当の意味での人間どうしの社会であると考えました。
 釈迦牟尼世尊は、ご自分の発見したことを、現実の場で徹底的に検証して「いつでも」「どこでも」「だれにも」あてはまる「普遍の真理」であることを確信しました。その上で人びとに伝えました。
 私は、釈迦牟尼世尊の正覚と教えについて、以上のように考え、この考えにもとづいて、釈迦牟尼世尊の教えを学び、実践を心がけてきました。

  釈迦牟尼世尊の説法

 阿含経に、正覚を得たばかりの釈迦牟尼世尊は、世間の人々のすがたを見て、自分が覚ったことを説いても、理解できる人はいないと思い、説法を断念しようとしたとあります。しかし、苦悩する人びとを放置することはできませんでした。
 釈迦牟尼世尊は、覚りの内容を直接説くことはせずに、苦悩する人びとに向かって、覚りへの道筋を説きました。この道筋を辿れば、苦悩が滅し、釈迦牟尼世尊と同じ境地に入れるのです。その道筋は、四つの聖諦と八支の聖道です。
 釈迦牟尼世尊の正覚の内容は、言葉にできないほど奥深いものなのですが、釈迦牟尼世尊の用意した道筋を辿れば、誰でも覚りうるものなのです。
 そのようにして釈迦牟尼世尊と同じ境地に到った修行者を阿羅漢と言います。釈迦牟尼世尊が入滅した後、阿含経が成立した経緯を学びますと、少なくとも五百人の阿羅漢が誕生していたことは間違いないようです。

  「縁起」の術語

 釈迦牟尼世尊の正覚の内容である「縁起」は、言葉にできないくらい奥深いと言われますが、学ぶためには、やはり言葉にしないわけにはいきません。
 釈迦牟尼世尊は、説法の中で、いくつもの術語を用いて「縁起」を説いているそうです。「縁起」という言葉も、その術語のひとつです。
 「縁生」「縁滅」という術語は、「縁(条件)によって生じる」「縁(条件)によって滅する」ということでありましょう。
 「因縁」という述語のもとの言葉は「結び付けられていること」という意味だそうです。これが漢訳されるときに「因」「縁」「因縁」などとなったそうです。「因」は「原因」、「縁」は「条件」ですから、ものごとが、互いに原因となり、条件となって進んでいくことを言っているとも受け取れます。
 「相依性」という術語もあります。互いに相依りあって存在しているということです。
 「人」という字について、これは人と人とが支え合って生きている形であると説くことがありますが、まさしく相依性の説明になっています。
 こうした、さまざまな述語・表現を一括して「縁起の法」とか「縁起の法則」と呼ぶこともあります。
 術語ではありませんが、増谷文雄博士が「縁起の公式」と呼ぶ、きまり文句があります。

   これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず
   これなければこれなし、これ滅すればこれ滅す

 このきまり文句は、阿含経にくりかえし出てきます。そのときには、たいてい、縁起の具体的な問題が、この論理を用いて、詳しく説明されています。
 増谷文雄博士は、次のように述べておられます。
 「一切の存在をこの公式によって思考しうるものが、すなわち、よく縁起の法則を会得したものにほかならないのである」

  原因・条件・結果・影響の原理

 縁起に関する数ある表現の中で、私には、妙法蓮華経の「十如是」と呼ばれる一節にある「如是因・如是縁・如是果・如是報」が理解しやすい表現です。
 庭野日敬師の「その因(原因)・縁(条件)によって千差万別の果(結果)・報(あとに残す影響)をつくりだす」(庭野日敬著『法華三部経 各品のあらましと要点』佼成出版社)という解説から、これを「原因・条件・結果・影響の原理」と呼ぶことにしました。
 この原理は、通常、次のように説明されます。

   原因=ものごとが起きるには、必ず、原因があります。しかし、原因だけでは何も起きません。
   条件=ものごとが起きるには、必ず、条件があります。しかし、条件だけでは何も起きません。
   結果=原因と条件が触れ合うと、必ず、ものごとが起きます。起きたものごとを結果と言います。
   影響=結果はそれだけで終わるものではありません。必ず、あとあとに影響を残します。

     この原理をベースに、経営・ビジネスのための実践理論「ビジネス縁起観」を開発しました。これを経営者やビジネスパーソンに説明して、成果を上げています。
 とりわけ、人間関係の諸問題、人材育成の諸課題、そして自己啓発と取り組むときは、この理論は、大きな力を発揮しています。