阿含経に学ぶ-5(「中(ちゅう)」について) 浪 宏友


  中道

 阿含経に、有名な一節があります。

「愛欲に貪著(とんじゃく)することは、下劣にして卑しく、凡夫の所行である。聖にあらず、役に立たないことである。また、苦行を事とすることは、ただ苦しいだけであって、聖にあらず、役に立たないことである。比丘たちよ、如来はこの二つの極端を捨てて、中道を悟った。それは、眼を開き、智を生じ、寂静・証智・等覚・涅槃にいたらしめる」1)

 釈迦牟尼世尊は、愛欲に貪著する生活を捨てて出家しました。出家してからは、厳しい苦行に勤めましたが、ついにこれも捨てました。
 最後に中道の実践に入って、修行の目的を達成したのです。

  二つの極端

 ここに「二つの極端を捨てて、中道を悟った」とあります。「愛欲に貪著する」ことが一つの極端、「苦行を事とする」ことがもう一つの極端です。
 「愛欲に貪著する」という極端と「苦行を事とする」という極端には、共通点があります。「聖にあらず、役に立たない」ということです。
 「聖」には「高貴な」とか「正しい」という意味があります。私は「正しく高貴である」と解釈しています。
 「中道」は、正しく高貴な「聖なる道」です。
 「愛欲に貪著する」ことも「苦行を事とする」ことも「聖ではない」のです。「正しくもなく、高貴でもない」のです。
 「役に立つ」とは、ここでは、「眼を開き、智を生じ、寂静・証智・等覚・涅槃にいたらしめる」ための役に立つということです。
 「中道」は、このための役に立つのです。
 「愛欲に貪著する」ことも「苦行を事とする」ことも、このための役には立たないのです。
 実際、「愛欲に貪著する」ことによって、あるいは「苦行を事とする」ことによって、仏の悟りを得たという話は、私は聞いたことがありません。

  「中(ちゅう)」とは

 ところで「中(ちゅう)」とか「中道」とは、どういうことを言っているのでしょうか。
 この経文では、「愛欲に貪著することもなく、苦行を事とすることもない修行の道」と解釈できますが、これだけではよく分かりません。
 水野弘元博士は、次のように解説しています。
 「ここに中道というのも実は空や無我と同じ内容のものと見てよい。仏教をよく知らない人から見れば、中道とは両極端の中間であり、平均値であるように考えられがちである。しかし仏教の中道は中庸とか平均値とかいうものではなく、極端として批判されているものとは質的転換がなされるのが本来のあり方である」2)
 私は、先輩たちから、「中」を「愛欲にもかたよらない、苦行にもかたよらない、ちょうど中ほど」と解釈してはならないと教えられてきました。
 有名な「弾琴の教え」では、釈迦牟尼世尊が、修行者のソーナに、次のような教えを説いています。
 「刻苦(こっく)にすぎては、心たかぶって静かなることあたわず、弛緩(ちかん)にすぎれば、また、懈怠(けたい)におもむく。ソーナよ、ここでも、また、なんじはその中をとらねばならない」3)
 ここには、努力の仕方は、きつすぎてもいけないし、ゆるすぎてもいけないとして、「その中をとらねばならない」とあります。
 こうした説明から、「中」とはこういうことなんだなと、分かったような気持にもなりますが、なにかもどかしいものが残ります。近くまで来ているのに、どうしてもたどり着けないという感じです。

  的中と的外れ

 私はヒントを求めて『漢字源』(学研)を開いてみました。
 「中」には、名詞として「ものの内側」、「もののまんなか」という意味があります。ずっと見ていきますと、動詞として「あたる」「ずばりとかなめを突き通す」という意味が出てきました。
 「これだ!」っと、思いました。そうか「中道」の「中」は、「当たる」なんだ「的中」なんだと、胸に堕ちました。
 すると、「極端」は「極めて端っこ」ですから、「的外れ」と言うことになるなと思いました。
 「中」は「的中」、「極端」は「的外れ」です。
 「中道」は「的中している道」ですから、「ぴったり合っている道」としていいでしょう。
 「二つの極端」は「的外れの道」ですから、「全く合っていない道」としていいでしょう。
 釈迦牟尼世尊は、修行の目的達成に全く合っていない二つの極端を捨て、修行の目的達成にぴったり合っている中道を修行して、目的を達成した。そのように考えることができました。
 単に言葉の意味だけでとらえた雑駁(ざっぱく)な論理で、いわゆる下世話な世俗的解釈にすぎないかもしれませんが、世俗を相手とする経営コンサルタントとしての私の立場では、実務的には、これで行けそうな気がします。

  中によって法を説く

    阿含経には、次のような経文があります。

 「カッチャーヤナよ、〈すべては有である〉という。これは一つの極端である。また、〈すべては無である〉という。これももうひとつの極端である。
 カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中(ちゅう)によって法を説くのである」4)

 釈迦牟尼世尊ご在世当時のインドでは、「すべては有である」「すべては無である」などと、議論が行われていたのでありましょう。
 釈迦牟尼世尊は、これらを「極端」と評し、こうした「極端」から離れて「中によって法を説く」と述べておられます。
 ここでは「中道」ではなくて「中」とあります。
 実際のところ、釈迦牟尼世尊が極端と批判する「すべては有である」とか「すべては無である」という考え方が、私たちの生活・人生のために、どのような有益な働きをしてくれるのかと考えますと、まったく無力であるように思えます。つまり、何の役にも立たない考え方ということです。
 一方、「中」によって説かれた釈迦牟尼世尊の法は、私たちの生活・人生を、現実に幸福に導いてくれました。つまり、大いに役立つ法であるということです。
 こうしたことから「中」はやはり「的中」であり、「極端」は「的外れ」であると言っていいように思います。
 「極端」と言われる「有」とか「無」などという思想は、ものごとのありのままを最後まで観察することなく、「有る」とか「無い」とか決めつけているように思われます。ほかにも「極端」とされる対立概念がありますが、やはり同じように感じます。
 試験問題を最後まで読まずに、答えを書いてしまう。人の話を最後まで聞かずに、全部分かったような返事をする。隙間からちらりと見ただけなのに、全部を見たような話をする。そんな手合いとよく似ているなあと思います。

  縁起の法と中道

 カッチャーヤナに対して、「如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説く」と述べたあと、釈迦牟尼世尊は十二支縁起をお説きになります。ここから、「中」は「縁起の法」であることが分かります。「中によって法を説く」は、「縁起の法によって法を説く」と言い換えてもいいわけです。
 「中」が「縁起の法」であるとすると、「中道」は、「縁起の法によって示された実践の道」ということになります。
 「縁起の法」を活用する立場に立てば、先ず、ものごとをありのままに観察し、縁起の法で分析整理して、その実相を明らかにします。
 その上で、縁起の法に照らしながら、目的達成のためには自分は何をすればいいのかを明らかにします。これが「縁起の法によって示された実践の道」すなわち「中道」です。
 この「中道」を実践すれば、目的を達成することができるのです。

  中道を見出す智慧

 ものごとはひとつひとつ違いますから、縁起の法によって導き出される「中道」も、ものごとに応じて、それぞれ違ってくることになります。
 つまり、「中道」は、その都度、見出していくべきものなのです。
 「中道」を実践しようと思うならば、「中道を見出す能力」を身に付けなければなりません。
 「中道」は、縁起の法によって見出されることが分かっています。それならば、縁起の法を理解し、活用し、実践する智慧を磨けば、いかなる場合でも「中道」を見出すことが可能になります。
 私たちは、縁起の法の研鑽を深めて、「中道」を見出し、「中道」を歩み、人生の目的を達成していきたいものだと思います。

1)増谷文雄著『阿含経典2』ちくま学芸文庫/実践の方法(道)に関する経典群/諦相応/如来所説
2)水野弘元著『仏教の基礎知識』春秋社、五十頁
3)増谷文雄著『仏教百話』ちくま文庫、八十一頁
4)増谷文雄著『阿含経典1』ちくま学芸文庫/存在の法則(縁起)に関する経典群/因縁相応/カッチャーヤナ