阿含経に学ぶ-8(苦痛を自分が作っている) 浪 宏友


  災 難

 ベランダで作業をしていると、不意に頭に何かが当たりました。サッカーボールでした。ベランダの外から、子供たちが、こちらを見ています。この子たちが蹴ったボールが、ベランダにいた私の頭に当たったのです。サッカーは、もっと広いところでやってくださいと意見を添えて、ボールを子供たちに返しました。
 それにしても、後方から飛んできたサッカーボールが、私の頭に当たるということは、私には避けようのない災難(?)でした。
 私たちには、いつ、どこで、どんな出来事が降りかかるか分かりません。それによって苦痛を感じることもしばしばです。このようなとき、事態をどう受け止め、どう対処すればいいのでしょうか。

  「凡夫」と「聖なる弟子」

 阿含経に「箭(や)によりて」という経文があります。「箭(や)」とは、弓で射る「矢」です。

 経文に「凡夫」と「聖なる弟子」が出てきます。
 「凡夫」とは、まだ釈迦牟尼世尊の教えを聞かず、実行もしていない人びとです。
 「聖なる弟子」とは、釈迦牟尼世尊の教えを聞き、実行している人びとです。

   また、経文に「受」という言葉が出てきます。
 「受」とは、感覚・知覚で感じることです。
 仏教では、三つの受を考えています。
 「楽しい受」は、快さを感じることでありましょう。
 「苦しい受」は、苦痛を感じることでありましょう。
 「苦しくもなく楽しくもない受」とは、苦痛もなく快さもない感じでありましょう。

 釈迦牟尼世尊は弟子たちに問いました。
 「『凡夫』と『聖なる弟子』は、同じように快さを感じますし、苦痛も感じます。また苦痛もなく快さもないことも感じます。この点では両者とも同じです。
 しかし、やっぱり、両者には、はっきりとした違いがあるのです。それは何でしょうか」
 こう問われた弟子たちは、釈迦牟尼世尊に、そのことを教えてくださいとお願いしました。

  苦痛を受けた凡夫

 釈迦牟尼世尊は、お説きになりました。
 「凡夫は、苦痛を感じると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたります」
 そして、「彼は二重に苦痛を感じるのです」とおっしゃいます。「最初に感じた苦痛」と、「泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するという苦痛」の、二つの苦痛を感じるからです。
 釈迦牟尼世尊は「これはあたかも、第一の箭に射られて、さらに第二の箭に射られたようなものである」と、お説きになりました。

 私の頭に、不意にサッカーボールが当たって痛さを感じたのが、第一の箭に射られたということです。
 このとき私が、怒鳴ったり、騒ぎ立てるようであっれば、私は内面に苦痛を感じているわけで、私は二重に苦痛を感じるわけです。これが、第二の箭に射られるということでありましょう。

  苦痛を受けた聖なる弟子

 釈迦牟尼世尊は、聖なる弟子についてお説きになります。
 「聖なる弟子は、苦痛を感じても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたりません」
 そして、「彼はただ一つの苦痛を感じるだけです」とおっしゃいました。最初に感じた苦痛で終わっているからです。
 釈迦牟尼世尊は、「これはあたかも、第一の箭に射られたけれど、第二の箭には射られなかったようなものである」と、お説きになりました。

 私の頭に、不意にサッカーボールが当たって痛さを感じたのが、第一の箭に射られたということです。
 このとき私が、怒鳴りもせず、騒ぎ立てたりもしなければ、サッカーボールが当たった痛さで終わっていますから、第二の箭には射られていないわけです。

  凡夫と聖なる弟子の違い

 凡夫も、聖なる弟子も、第一の苦痛は避けがたいという意味では同じなのです。違うのはそのあとです。
 凡夫は、第一の苦痛を感じたことによって、自分の中に第二の苦痛を感じてしまうのです。そして、この苦痛をどうすることもできません。
 聖なる弟子は、第一の苦痛は感じますが、それによって自分の中に第二の苦痛を感じることはありません。そして、第一の苦痛に対して、適切に対処することができるのです。

  貪欲・瞋恚・愚痴

 人間が陥る根本的な迷いとして、「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」があります。
 貪欲とは、肥大化した欲望、歪んだ欲望です。
 瞋恚とは、自分本位のわがままな怒りです。
 愚痴とは、正しい見かた、考えかたができない愚かな知性です。

 凡夫が苦痛を感じると、自分の中に眠っている貪欲・瞋恚・愚痴という迷いの素質が目を覚まします。こうした迷いのはたらきによって、「泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる」のです。つまり、凡夫は、自分で自分の中に、苦痛を作っているのです。
 しかも、凡夫は、自分で作った苦痛によってさらなる迷いを生じ、さらなる苦痛を生み出します。こうして、際限なく苦しみ続けるのが凡夫であると、釈迦牟尼世尊は、言っているのでありましょう。

 聖なる弟子は、貪欲・瞋恚・愚痴という素質を、すでに自分の中から拭い去っています。このため、苦痛を感じても、「泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない」のです。
 聖なる弟子は、苦痛を感じると、「私は苦痛を感じている」と静かに受け止め、この苦痛に関する原因・条件・結果・影響の関係を見定めて、正しく対応するので、苦痛が苦痛にならないのです。

  瞋 恚

 経文には、凡夫が苦痛を感じると、貪欲・瞋恚・愚痴の素質が目を覚ますと説かれています。
 まず「瞋恚」です。
 まだ釈迦牟尼世尊の教えを聞いたことのない凡夫が、苦痛を感じますと怒りが生じます。「ムカッ腹が立った」とか「カチーンときた」などです。こうした怒りがきっかけとなって、それまで眠っていた瞋恚の素質が目を覚まし、暴れ出し、燃え上がるのです。
 これだけでも不幸な状態なのですが、瞋恚を周囲の人々にぶつけるなどすれば、争いが生じたり、人びとに見放されたりして、ますます不幸が増大します。苦痛と不幸が、どこまでも連鎖するのです。

  貪 欲

 次に貪欲です。
 まだ釈迦牟尼世尊の教えを聞いたことのない凡夫は、苦痛を感じますと、欲望を満たして快感を味わおうという欲望を生じます。遊び惚けて苦痛を紛らわすとか、金儲けをして苦痛をごまかすというようなことです。苦痛に対する正しい対処が分からないために、欲望を満たすことぐらいしか思いつかないのです。
 このような欲望が生じますと、これが引き金となって、いままで眠っていた貪欲の素質が目を覚まし、動き出し、暴れ出し、貪欲がその人を支配するようになります。
 こうなると、欲望の底なし沼から抜け出すことができなくなります。

  愚 痴

 次に、愚痴です。「愚痴」は「無智」とも言います。
 まだ釈迦牟尼世尊の教えを聞かない凡夫は、苦痛がどうして起きたのかも分からず、苦痛を滅する道も分かりません。この苦痛を放っておけば、どんな良くないことが起きるのかも分かりません。
 こうして、何も分からないままに、眠っていた愚痴の素質が目を覚まして、起き上がり、暴れ出してその人を覆ってしまいます。愚痴に覆われた人は、ものの見かたを誤り、対処のしかたを誤ります。
 それは暗闇の中で明かりも持たずにさまよっているようなもので、危険極まりない姿です。

  苦痛を自分で作る

 まだ釈迦牟尼世尊の教えを聞かない人びとは、快さを感じても、苦痛を感じても、快くもなく苦痛でないことを感じても、それにとらわれて、貪欲・瞋恚・愚痴を起こします。これによって苦痛から苦痛への毎日を送りつづけてしまいます。
 苦痛の多くは、自分で作っているのです。

 釈迦牟尼世尊は、修行者に、自分にこびりついた貪欲・瞋恚・愚痴を滅することを勧め、そのための修行の道を示してくださいました。
 これが、苦痛から救われ、幸福へと向かう大道にほかならないからです。

 しかし、貪欲・瞋恚・愚痴に覆われた人びとは、この教えを聞くことができず、聞いても理解することができず、信じることもできないままに、相も変わらず苦痛から苦痛への毎日を送り続けるのです。