阿含経に学ぶ-10(懺悔について)    浪 宏友


  舎利弗悔過経

 インターネットで、懺悔に関する資料を探していましたら、中御門敬教先生(知恩院浄土宗学研究所研究員)による「『舎利弗悔過経』試訳」と題する論文に出会いました。『舎利弗悔過経』は「大乗経典の中では極めて古層に属する」のだそうです。
 「悔過」は「懺悔する」というような意味ですから、これは勉強しなければならないと思いました。

 『舎利弗悔過経』は、舎利弗が仏さまに質問するところから始まります。
 「在家の信仰者が、これまでに罪を犯していたとします。どのように罪を懺悔すればいいのでしょうか」
 この質問に対して、仏さまが教えをお説きになります。その内容を中御門先生は、「@懺悔A随喜B勧請C福徳の布施」とし「福徳の布施」は「廻向」であるとおっしゃっています。この四つの内容を、学んでみたいと思います。(引用文中の、カッコ内の小さい文字は、筆者の加筆です)

  懺 悔

 仏さまは、次のようにお話を始めます。
 「阿羅漢(あらかん)道や、辟支仏(びゃくしぶつ)道や、仏道を求め、過去や未来の出来事を理解したい良家の子息や子女がいたとします」
 「良家の子息や子女」とは、在家の信仰者です。ここでは、在家の信仰者が求める境地が示されています。
 「過去や未来の出来事を理解する」とは、宿命通を思わせますが、私は「自分に関わりのあるさまざまなできごとの原因・条件・結果・影響の関係を理解する」と解釈しました。要するに智慧を得ることです。

 高い境地を求める在家信仰者に、仏さまは、懺悔の実践を勧めます。懺悔は、犯した罪を仏さまに告白するところから始まります。
 「私たち(在家信仰者)は、過去世に、つまり数えきれない劫(こう)よりこのかた、犯した罪があります。今世にいたっては、愛欲(貪欲)を犯し、怒り(瞋恚)を犯し、無知(愚痴)を犯しています」
 ここでは、誤った行為を生み出した貪欲・瞋恚・愚痴を懺悔しています。より根本的な懺悔と言えるでしょう。

 「あるいは身体で罪を犯し、あるいは口で罪を犯し、あるいは心で罪を犯し、あるいは意で罪を犯しました(「心」と「意」の違いは分かりません)」
 仏教では、人の行為を「身体の行為・言語の行為・心の行為」の三つと考えています。そのすべてで罪を犯してきたことを告白しています。

 自分で悪業を行ない、人にも悪業を勧め、人が悪業を行なうのを見て我がことのように喜んだ、と表白するところがあります。
 たとえば「自ら殺生し、人に殺生させ、人が殺生するのを見て、我がことのように喜びました」とあります。以下「自ら盗みをし、人にも盗みをさせる」「自ら人を欺き、人にも欺かせる」など、十四の項目にわたって述べられています。
 自分で罪を作るだけでなく、人にも罪を作らせるのですから、罪が重層構造を成しています。指導的立場にある人がこういうことをしたら、大変なことになってしまうでしょう。
 まだまだ、罪の告白は続きますが、紙幅の都合でここまでにしておきます。

   罪を告白したら、次のように懺悔するのです。
 「私たち(在家の信仰者)は、多くの罪を犯しました。十方の諸仏に願い、哀れみを求め、懺悔します」
 「十方の諸仏」とは「あらゆるところにいらっしゃる仏さま」ということです。仏さまは、地球を含むこの宇宙のあらゆるところに満ち満ちておられます。当然、自分の体や心にも仏さまが満ち満ちていらっしゃいます。何といっても、自分の中の仏さまに懺悔しなければならないでしょう。

 懺悔は続きます。
 「仏の前では、正直にならざるをえません。私たちは決して犯した罪を隠しごとしません」
 そして、次のように誓います。
 「今後再び、決して罪を犯しません」
 この決意によって、懺悔が懺悔になるのです。自分の過ちに気づきながら、改めようとしないのであれば、とても懺悔とは言えないでしょう。

 注意すべきは、この懺悔と決意が、自発的であり、喜びであるということです。この後は、過ちのない人生を歩めるのですから、心の底から喜びが湧いてくるのです。

 しかし、「今後再び、決して罪を犯しません」と決意したものの、まだまだ迷いから抜けきっていない自分です。なんとも、心もとないものがあります。そこで、仏さまに次のようにお願いします。
 「どうかこの世で、私たちがこれらの罪をおかしませんように」
 つまり、仏さまに手を添えていただいて、再び罪を犯さないように守護していただくのです。

 以上をまとめると、次のようになります。
 仏さまに向かって、自分がこれまでに犯してきた罪を告白してお詫びをし、これからは罪を犯しませんと決意を示し、仏さまのご加護をお願いする。
 これが『舎利弗悔過経』に説かれている懺悔であると、私は理解しました。

  随 喜

 次に「随喜」です。「随喜」とは、他人が善い行ないをするのを見て、我がことのように喜びを覚えることです。
 たとえば、街を歩いているとき、目の前で小さな親切が行われたのを見て、心が温まることがあります。
 危険な状態にある人をみつけた若者たちが、我を忘れて必死に救助した。そんな話がテレビで放映されますと、素晴らしいと思わず讃えてしまいます。

 『舎利弗悔過経』に「十方の諸仏誰もが、かたよりなく世の人、つまり太陽や月が照らす人々に教えを巡らし、善を行なわせます」とあります。
 あらゆる仏さまは、あらゆる人々に、善を行なわせようとしているのです。
 自分の中の仏さまは、自分に善いことを行なわせようとします。そればかりか、自分と関わりのあるすべての人びとに善を行なわせようとするのです。そして、他の人が仏さまの教えを実行しているのを見て、喜びを覚えるのです。

 次の経文があります。
 「私たちは彼らに善を作るように鼓舞して、善を作った彼らの喜びを我がことのように喜びます」
 これによれば「善を作ったこと」を喜んでいます。善を作ったために財が手に入ったとか、善い境遇になれたとか、そういうことを喜んでいるのではありません。「善を行なえたこと」を喜んでいるのです。
 ここは、見逃してはならないところだと思います。

  勧 請

 「勧請」というのは、仏さまに向かって、「どうかずっとこの世にあって説法してくださり、私たちを救ってください」とお願いすることです。

   仏さまの教えに触れる機会のない人は、貪欲・瞋恚・愚痴にまみれて、自分本位のことばかり行なってしまいがちです。それによって悪い結果が出ますと、今度は良い結果を出すぞと頑張るのですが、その内容はやはり貪欲・瞋恚・愚痴にまみれた自分本位のことばかりになります。この迷いのぐるぐるまわりを輪廻と言います。貪欲・瞋恚・愚痴を持っているかぎり、迷いのぐるぐるまわりは続いてしまうのです。
 迷いのぐるぐるまわりから抜け出すには、仏さまの教えを聞いて、実践するほかありません。仏さまの教えに基づいて、自分の過ちに気づき、懺悔をし、正しい道に入れば、迷いのぐるぐる回りから脱することができるのです。

   「仏さま、どうかいつまでもこの世にいてください、教えを説いて私たちを救ってください」と、在家信仰者がお願いするのは、迷いのぐるぐる回りから救われたいからでありましょう。

  福徳の布施

 仏さまが懺悔について説き終わりますと、再び舎利弗が仏さまにお訊ねします。
 「仏道を求めている良家の子息や良家の子女がいたとします。仏道を獲得するには、一体どのように願ってこれを成就するのですか?」
 「仏道」とは、仏さまが説いてくださった実践の道であり、それは中道・八正道にほかなりません。

 仏さまは、在家信仰者の言葉として、次のように説きます。
 「十方の諸仏よ、どうか聞いてください。私たちは、過去世に、つまり数えきれない劫(こう)よりこのかた、福徳を得てきました」
 「福徳を得てきた」とは、「善を行なってきた」ということです。在家信仰者たちは、多くの過ちを犯してきましたが、同時に、善なる行ないもしてきたのです。それが、在家信仰者の福徳を育ててきたのです。
 「福」とは「温かくて大きな人格」です。
 「徳」とは、「人を幸せに導く力があること」です。
 在家信仰者たちは、自分たちが得てきた福徳を、人びとに布施するのです。それによって、人びとにも福徳を積ませるのです。このように心掛け、実践していけば、仏道を獲得できると、仏さまは説いておられるのです。
 在家信仰者たちの真の目的は、仏道を得ることである、中道・八正道を実践することであると、この経文は言っているように思われます。