阿含経に学ぶ-11(現世で涅槃に達する)    浪 宏友


  法を説く比丘

 阿含経に「説法者」と題する経文があります。これを学ばせていただこうと思います。
 ある日、一人の比丘(男性の出家修行者)が、釈迦牟尼世尊にお尋ねしました。

 「大徳よ、よく説法者、説法者と申しますが、いったい、説法者とはなんでありましょうか」(増谷文雄編訳『阿含経典1』ちくま学芸文庫、p.154)

 この質問に対して、釈迦牟尼世尊は次のようにお答えになりました。

 「もし比丘が、老死について、それを厭い離るべきこと、貪りを離るべきこと、そして、それを滅すべきことを説くならば、彼はまさしく法を説く比丘と称されることができる」(同)

 老死に続いて、生・有・取・愛・受・触・六処・名色・識・行・無明のそれぞれについて同じことをお説きになります。
 そして、「人びとに向かって、『老死などの迷いや苦しみを厭い、離れたいと思うべきです。迷いや苦しみの原因である貪りから離れよう、滅しようと思うべきです』と説く比丘を、『法を説く比丘』と呼ぶ」とおっしゃいました。

     迷いと苦しみを滅する

 この経文は、老死・生・有・取・愛・受・触・六処・名色・識・行・無明のそれぞれについて、同じことが説かれています。
 これらは、いわゆる十二支縁起の要素であり、これらの要素の一つ一つが、迷いと苦しみを表しています。いわば、迷いと苦しみの諸相であると見ることができます。
 「老死について、それを厭い離れるべきこと」とあります。これは「老死などの迷いと苦しみがこのままずっと続くのは厭だと思い、離れたいと思う」というような意味です。
 迷い・苦しみのない状態を欲してはいても、現実は迷い・苦しみに満ちています。こういう人生を甘受している人は少なくありません。人生が迷いや苦しみの連続であるのは避けられない。その中でどう生きて行くかを模索するしかないなどと考えてしまうのです。
 これに対して経文は、「老死などの迷いと苦しみの毎日を甘受することなく、迷い・苦しみは厭だ、離れたいと思い、実際に離れなければなりません」と言っているのです。

  貪りを滅する

 次いで経文に、「貪りを離るべきこと、そして、それを滅すべきこと」とあります。
 釈迦牟尼世尊は、「老死などの迷いと苦しみが生じる原因は、貪りにある」と明らかになさいました。

 貪りというのは、必要以上に肥大化した欲望や醜く歪んでしまった欲望を言います。このような貪りを持っている間は、迷いと苦しみを避けることはできないのです。
 そこで経文は、「老死などの迷いと苦しみを生み出す貪りから離れなければなりません、滅しなければなりません」と言っています。そうすれば、迷いと苦しみの無い人生が実現するからです。

  正法を行ずる比丘

   釈迦牟尼世尊はさらにお続けになります。

 「また、もし比丘が、老死について、それを厭い離れること、貪りを離れること、そして、よくそれを滅することを行ずるならば、彼はまさしく正法を行ずる比丘と称されることができる」(同)

 ここに「老死を厭い離れること」、「貪りを離れること」、「貪りを滅すること」とあり、この三つの「こと」を「行ずるならば」その比丘は「正法を行ずる比丘」と呼ばれるとあります。
 三つの「こと」は、「中道・八正道」を指しています。中道・八正道を実践すれば、老死などの迷い・苦しみを厭う心が生じ、離れたいと思うようになります。そして、迷い・苦しみを生み出す貪りから離れ、滅することができるのです。

 釈迦牟尼世尊が「法を説く比丘」を説いてすぐに「正法を行ずる比丘」に言及なさったのは、人々のために法を説くだけでは、貪りを滅することはできず、迷いと苦しみから離れることはできないからです。正法を実践し、貪りを滅することによって、ようやく迷いと苦しみから離れることができるのです。
 まして、法を聞いただけ、学んだだけでは迷いや苦しみが無くなることはありません。

  この世において涅槃に達した比丘

 釈迦牟尼世尊は、お続けになります。

 「また、もし比丘が、老死について、それを厭い離れ、貪りを離れ、それを滅しつくして、執着するところなく、解脱することを得たならば、彼はまさしくこの世において涅槃に達した比丘と称されることができるのである」(同、p.154〜155)

 この経文には、正法を行じた比丘について述べられています。
 正法を実践した比丘は、貪りを離れ滅し、執着が無くなった比丘は、老死などの迷い・苦しみから離れます。これを解脱と言います。
 こうして解脱した比丘は、「この世において涅槃に達した比丘」と呼ばれるのです。この世に生きながら、涅槃に達した比丘となるのです。
 そのような比丘は、生涯、正法を行ない続け、安らかな気持ちで生活を続けながら、人びとのために法を説き続けるでありましょう。