阿含経に学ぶ-12(縁起の法は深遠)       浪 宏友


  

苦悩に満ちた人世


 ある日、アーナンダは、釈迦牟尼世尊に申し上げました。

 「大徳よ、この縁起の法は、はなはだ深く、深遠を極めると申しますが、大徳よ、それはどうも、わたしには、奇妙なこと、不思議なことのように思われます。大徳よ、それは、わたしの見るところでは、明々白々のように思われます」(増谷文雄編訳『阿含経典1』ちくま学芸文庫、p.244)

 釈迦牟尼世尊がお説きくださる縁起の法について、人々は「はなはだ深く、深遠を極める」と言うけれども、自分にはそうは思えない、明々白々だと思う。そのように申し上げたわけです。
 長い間、釈迦牟尼世尊の侍者としてお仕えしながら、学び、実践してきたアーナンダには、そう思えたのでありましょう。

  「アーナンダよ、そういってはいけない。アーナンダよ、そういってはいけない。アーナンダよ、この縁起の法は、はなはだ深くして、深遠の相を呈している」(同書、p.244〜245)
 釈迦牟尼世尊は、アーナンダをたしなめて、次のようにおっしゃいます。

 「アーナンダよ、この法を証(さと)らず、この法を知らないから、世の人々は、まるで糸の縺(もつ)れたように、腫物(はれもの)におおわれたように、あるいはムンジャ草やパッパジャー草のように、悪しきところに生れ、悪しきところに赴(おもむ)き、いつまで経っても地獄の輪廻を出ることができないのである」(同書、p.245)

 ムンジャ草、パッパジャー草とは、葦蘆(あしよし)の類の雑草を言ったものであろうと、増谷文雄博士の注解にあります。
 多くの人々は、縁起の法を聞いても、理解もできず、実践もできないのです。そのために、迷いに満ちて、悪いところに生れ、悪いところに向かい、地獄の苦しみを味わうという人生から出ることができないのです。
 人々がそのようになってしまうわけを、釈迦牟尼世尊は、次のようにお示しになりました。

 「アーナンダよ、見るところ聞くところのものについて、じっと味っていると、そこに愛が嵩じてくる。その愛によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。これがすべての苦の集積のよりて起るところなのである」(同書、p.245〜246)

 たとえば、好もしい人の姿を見たり、声を聞いたりして快さを味わっていますと、ずっとこの快さを味わい続けていたいという執着が高まってきます。これが「愛」です。
 執着は次第に強くなり、この姿、この声を自分のものにしたいと思う欲望となります。これが「取」です。
 欲望が募りますと、この姿、この声を自分のものにしようと行動します。これが「有」です。
 こうした、執着とその行動が、さまざまなできごとを生み出す毎日が続きます。これが「生」です。
 このような執着の日々を送るうちに、老いを迎え、やがて死に至ります。これが「老死」であり、その一生を振り返れば「愁・悲・苦・憂・悩」に満ちているのです。それは、苦を集めて積み上げたような人生であり、地獄のような毎日です。縁起の法を知らず、実践できない人びとは、このようになってしまうのです。

  

苦悩の無い人世


 しかし、次のような修行をすれば、状況は根本から変わります。

 「アーナンダよ、それに反して、見るところ聞くところのものについて、これは危ないぞと観ていると、そこに愛が滅する。愛が滅すれば取が滅する。取が滅すれば有が滅する。有が滅すれば生が滅する。生が滅すれば、老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。これがすべての苦の集積のよりて滅するところなのである」(同書、p.245〜246)

 たとえば、好もしい人の姿を見たり、声を聞いたりして快さを味ったときに、これは危ないぞと自制します。そうすると、この快さを味わい続けていたいという執着が生じません。「愛」が滅するのです。
 執着が生じませんから、この姿、この声を自分のものにしたいという欲望が生じません。「取」が滅するのです。
 欲望が生じませんから、この姿、この声を手に入れようとする行動が生じません。「有」が滅するのです。
 執着とその行動が生じませんから、それらが生み出す毎日が生じません。「生」が滅するのです。
 執着とその行動がない日々を送るうちに、苦悩もなく、穏やかに老い、やがて死を迎えます。これも「老死」ですが、そこには「愁・悲・苦・憂・悩」がありません。苦を集めて積み上げるような人生は、そこには生じません。
 縁起の法を理解し、実践している人は、このようにして、苦悩の無い人生を歩むことが出来るのです。

 ここでひとつ、申し添えておきたいことがあります。
 さきほど「たとえば、好もしい人の姿を見たり、声を聞いたりして快さを味ったときに、これは危ないぞと自制する」と申し上げました。
 これは、自分に執着が生じないように気をつけるということです。好もしい姿や声を、嫌ったり、否定したりするということではありません。
 執着が生じないことによって、その好もしい姿や声を素直に受け取り、素直に喜び、幸せになりながらも、それを後に引きません。ですから、そこには、なんの悪影響も生じないのです。

  

縁起の法の難しさ


 アーナンダは、縁起の法は明々白々であると言っています。執着を生じれば、迷いと苦悩の人世を歩むことになるけれども、執着を生じなければ、迷いも苦悩もない人生を歩むことができるということが、明々白々なのです。
 釈迦牟尼世尊のもとで、繰り返し繰り返し教えを学び、実践して、自分の中にある執着をすっかり無くして、清らかな心になっているアーナンダのような人には、縁起の法は明々白々であるに違いありません。
 縁起の法は真理でありますから、誰にでも、同じようにはたらきます。縁起の法を知っている人にも、知らない人にも、同じようにはたらきます。
 縁起の法を知っている人は、ものごとを正しく受け取り、正しく判断して、正しく行動しますから、心が清らかになって、幸せに向かいます。
 縁起の法を知らず、執着に満ちた人は、どうしても自分本位になりますから、ものごとを自分本位に曲げて受け取り、自分本位に勝手な判断をして、自分本位にわがままな行動をしがちです。このため、心がますます汚れて、さらなる迷いと苦悩へ向かいます。
 執着に満ちた自分本位の人が、幸せになりたい一心で、縁起の法を学んだとしても、これをまた自分本位に解釈し、ねじ曲げたりします。教えをねじ曲げて実践しても、幸せに向かうことはありません。このような人が、しばしば「教えなんて何の役にも立たない」などと言い放つのです。
 自分本位に生きている人でも、たまたま素直な心になることがあります。そのようなときに教えを学べば、ある程度理解でき、ある程度実践できます。実践できればそれに応じた結果がでます。それは喜びをもたらしますので「教えはやっぱり素晴らしい」などと、称讃します。
 そのまま、素直に学び続け、実践し続ければいいのですが、たいていは自分本位に立ち帰って、迷いの行動に戻り、苦悩をぶり返すことになってしまいます。
 そんな行きつ戻りつを繰り返している人にとっては、縁起の法は分かりにくく、実践しにくいものであるにちがいありません。

    

縁起の法は深遠


 縁起の法は深遠であると、釈迦牟尼世尊はおっしゃいました。しかし、それは、「迷っている人には分かりにくく、実践しにくいものである」ということだけではないと思います。
 私は、自分の中で、このようなことを思っています。
 「真理は厳しい。だけど、真理は温かい」
 「真理は厳しい」と思うのは「縁起の法を理解し実践すればしたなりの結果が生じ、実践しなければしなかったなりの結果が生じる」ということです。
 こういう結果が欲しいと思っても、望む通りの結果が出るわけではありません。実践した通りの結果が出るのであり、実践しなければ結果は出ないのです。真理のはたらきには寸分の狂いもないのです。
 「真理は温かい」と思うのは「縁起の法を少し実践しただけで、嬉しい結果をだしてくださる」ということです。それは、まるで、幼児がちょっとだけお母さんのお手伝いをしたら、いっぱいご褒美がいただけるというのに似ています。私が、縁起の法は深遠であると感じるのは、まさしくそういうときです。
 縁起の法は、思いもよらない広さと深さではたらいているように思われます。数多くの悩みを持つ人が、縁起の法を学んで、一つの悩みに取り組み、ようやくこれを解決したら、その他の悩みも次々に解決していった。こんな経験は稀ではありません。こちらで縁起の法を実践したら、向こうで結果が現れた。そんなこともしばしばです。縁起の法は、私たちの認識能力では及びもつかないはたらきをしているのです。
 私の実感では、縁起の法は、あらゆる人々を幸せにしたい、幸せに導きたいと念じながらはたらいているように思われます。
 仏教では、真理の象徴として、仏陀を生み出しています。阿弥陀如来、毘盧遮那仏、大日如来。民衆に深く浸透している薬師如来。妙法蓮華経に説かれている久遠本仏。こうした仏さまたちは、あらゆる人々を幸せにしたい、幸せに導きたいとはたらいておられると信じられています。そのおはたらきの神秘さは、縁起の法のはたらきの神秘さそのものであると思います。