阿含経に学ぶ-13(貪欲・瞋恚・愚痴の根っこ)   浪 宏友


  

八支の聖道の実践

 成道なさった釈迦牟尼世尊は、鹿野苑で五人の修行者たちに初めて教えを説かれました。これを「初転法輪」といいます。
 初転法輪でお説きになった最初の教えは中道でした。そして、釈迦牟尼世尊は、中道とは八支の聖道であるとお説きになりました。正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八支からなる修行道です。
 次いで釈迦牟尼世尊は、四つの聖諦をお説きになりました。苦しみ悩みのありのままを明らかにする、苦しみ悩みの原因を明らかにする、原因を滅すれば苦しみ悩みが滅することを明らかにする、苦しみ悩みの原因を滅する道を明らかにするという教えです。そして、苦しみ悩みの原因を滅する道は、八支の聖道であるとお説きになりました。
 その後の釈迦牟尼世尊の説法を学ばせていただきますと、釈迦牟尼世尊は、あらゆる人々に八支の聖道を実践させてあげたいと、心から思われていたのだと考えられます。
  

八支の聖道を妨げるもの

 八支の聖道を実践しようと思っても、自分の中から迷いが出てきて、実践できなくなることがあります。
 「迷い」とは、目的に到達するための正しい道が分からなくなったり、間違った道に入ってしまったりすることです。苦しみを除こうと思っているのに、迷いによって道を間違え、かえって苦しみ悩みを増大してしまうこともあります。幸せを求めているのに、幸せへの道を見失い、かえって不幸になる道に紛れ込んでしまったりします。
 迷いにはさまざまありますが、中でも貪欲・瞋恚・愚痴は難敵です。これらは三毒といわれるだけあって、八支の聖道の実践を真っ向から妨げます。
 最大の迷いは、「自分は貪欲・瞋恚・愚痴という迷いを持っている」という事実に気づかないことかもしれません。このため、平気で迷いの道を歩き、苦しみ悩みを生み出します。そして、誰か他人が自分を苦しめている、悩ませていると思い込み、恨み辛(つら)みを並べるのです。
 苦しみ悩みをなくすためには、そして幸せへの道を歩むためには、貪欲・瞋恚・愚痴を滅しなければならないことに気づかなければならないでしょう。
  

貪欲の根っこは執着

 貪欲について、考えてみたいと思います。  人間にはさまざまな欲望があります。その中に、なくてはならない欲望もあります。食欲がなくなったら生きていけません。性欲がなくなったら子孫を残せません。こうした、なくてはならない基本的な欲望がいくつもあります。こうした欲望が正しくはたらいていることも、幸福への条件のひとつだと思います。
 なくてはならない欲望がある一方、他人に迷惑をかけ、世間を騒がせ、ひいては自分を傷つけたり退歩させたりする欲望があるのも事実です。
 阿含経に次のような理論が述べられていました。
 ある対象によって快さがもたらされます。快さを楽しんで、そのまま忘れればいいのです。しかし、その対象に対して、あるいはその快さに対して執着が生じますとそこから欲望が生じます。ここまでは、まだいいのですが、この後に問題があります。
 欲望の対象から、さらなる快さがもたらされますと、執着が深まり、欲望が大きくなります。これを繰り返して執着がどんどん深まり、それにつれて欲望もどんどん大きくなり、ついにはとてつもなく肥大化します。満ち足りているのに、まだ欲しいまだ欲しいと欲張ってしまうのです。世間には、より多く消費する人ほど幸せであると勘違いしている人々がいますが、こうした、肥大化した欲望がそうさせるのでありましょう。
 また、何としても欲望を満たしたいと思い始めると、欲望に歪みが生じることがあります。求めてはならないものを求めるという歪み、人倫から外れた方法を用いてでも手に入れようとする歪み、こうした歪んだ欲望がさまざまな事件を生み出しています。
 こうした「肥大化した欲望」「歪んだ欲望」が、貪欲と呼ばれているのだと思います。こうした貪欲は、執着という根っこから生じているのです。
  

瞋恚の根っこは自分本位

 瞋恚とは、怒りです。「瞋」は、表面だった激しい怒りのこと、「恚」は、表情には出さないけれども、お腹の中で怒っていることと教えてもらったことがありますが、そればかりが怒りではありません。
 あいつの言葉にカチーン!ときた。あいつ、俺に逆らいやがって生意気だ。あの態度にはムカムカする。ひどい目に合わせやがって、ずっと恨んでやる。あの野郎、今度はぶっ飛ばしてやる。
 まだまだ、あります。怒りを表す言葉はありすぎてきりがありません。
 怒るきっかけもさまざまです。ものごとが自分の思い通りにならないと怒ります。自分の利益にならないと怒ります。相手が自分の都合に合わせないと怒ります。自分の言う通りにしないと怒ります。自分の意見が否定されると怒ります。相手が自分のイメージ通りに行動しないと怒ります。
 よくよく観察してみると、日常的な不平・不満も、怒りの一種であることがわかります。不平・不満が大きくなると、怒りに育っていくのです。
 瞋恚とは、こうした多種多様な怒りを総括した概念であると考えられます。
 貪欲の根っこには執着がありますが、瞋恚の根っこには、わがままな自分本位があります。自分本位が満たされなかったとか、否定されたと感じると、不平・不満を始めとして、さまざまな怒りが生じるのです。
  

愚痴の根っこは劣化した理性

 愚痴といえば、現代では、「ぐちをこぼす」と言って、不平・不満をぼそぼそ言ったり、言ってもどうにもならないことを口にしたりすることをいいます。
 仏教における愚痴は、そういうことではありません。ものごとのありのままを見ることができないために、また、ものの道理が分からないために、愚かな行為を繰り返すことを愚痴と言います。こうした愚痴の根っこには、劣化した理性があることに目を向けたいと思います。
 ここで言う理性は、ものごとのありのままを知る能力であり、ものごとのすじみちや法則を知る能力であり、自分の生き方とか、人と人との関係などを正しく知る能力です。人間らしい生き方は、理性から生まれるのです。
 そうした理性が劣化していると、ものごとを見誤り、すじみちから外れたことを行なって、自分と他人との関係を険悪にしたり、自分に苦しみ悩みを作ったりするのです。
 知識と理性は別物です。知識を豊富に持っていても、理性が劣化している人がいます。逆に、身の回りの知識しか持ち合わせていない人でも、高い理性を持っている人がいます。
 理性が劣化することによって、次のようなことを行ないがちになります。
 正しいことを間違っていると否定し、間違っていることを正しいと主張します。
 ものごとの表面にとらわれて、奥にあるものを見ようとしません。
 ものごとの正しい道理を押しのけ、自分に都合のよい理屈を言い張ります。
 自分のためになる忠告には耳を貸さず、自分を不幸に導く話には喜んでついて行きます。
 このようにして、劣化した理性は、自分の生きかたを悪化させます。また、自分と他人との関係を悪化させます。
 理性はどのようにして劣化するのでしょうか。
 理性が育ちつつあるときに、何らかの事情があって、誤った方向に導かれ、結果として劣化してしまうことが考えられます。また、理性が執着や自分本位に従属して劣化することが考えられます。そして、したことはしやすくなるという原理によって、理性が劣化した行ないを繰り返すたびに、ますます劣化するのです。
 いかなる理由にせよ、理性を劣化させたのでは、幸福な人生は望めないでしょう。
  

三毒

 仏教では、「貪欲・瞋恚・愚痴」を三毒といいいます。貪欲の根っこは執着です。瞋恚の根っこは自分本位です。愚痴の根っこは劣化した理性です。そう考えますと、「執着・自分本位・劣化した理性」を三毒と言ってもよさそうです。現代の人には、このほうが分かりやすいかもしれません。
 執着が強ければ、強い欲望を生み出します。まだ欲しい、まだ欲しいと、いつまでたっても満足することを知りません。このため、真の幸福を得ることはできません。
 自分本位が強ければ、思いのままにならないことに対して怒りを発します。ところが、世の中は、思いのままにならないことだらけです。このため、この人はいつも怒っていなければなりません。怒ってばかりいる人が幸福になることはあり得ません。
 理性が劣化している人は、自分の苦しみ悩みを解決することができません。かえって苦しみ悩みを生み出すことを熱心にやってしまいます。これでは、幸福になりようがありません。
 こうして、三毒に侵されている人は、幸福になる道を自ら閉ざしてしまうのです。
  

三毒から抜け出す道

 釈迦牟尼世尊は、人が三毒から抜け出す道を明らかにしました。それが八支の聖道です。
 八支の聖道を実践することによって、執着・自分本位・劣化した理性をなくすことができます。これによって、苦しみ悩みはなくなります。
 苦しみ悩みがなくなったあと、さらに八支の聖道を実践すれば、本当の幸福を得ることができます。八支の聖道の実践こそ、人間として本当の幸福を得るための、ゆるぎなき道なのです。