阿含経に学ぶ-14(怒りについて)        浪 宏友


善因楽果・悪因苦果

 善因楽果・悪因苦果という法則が説かれます。詳しく検討するといろいろ難しいこともあるのですが、ここではおおまかに捉えておきたいと思います。
 「因」とは「原因」です。自分の行なった行為が原因になります。行為には、身体的行為・言語的行為・精神的行為があります。
 「善因」とは、「善い原因」をつくることで、八正道を実践することです。
 「悪因」とは、「悪い原因」をつくることで、八正道から外れた行いをすることです。
 「楽果」とは、「楽受の果」でありましょう。「楽受」とは「身や心に快いと感じる」ことです。
 「苦果」とは、「苦受の果」でありましょう。「苦受」とは、「身や心に苦痛を感じる」ことです。
 そこで、「善因楽果・悪因苦果」は、次のように言い換えることができると思います。
 「八正道を実践すると、身や心に快さを感じる結果が生じる」  「八正道から外れたことを行なうと、身や心に苦痛を感じる結果が生じる」
 おおまかに過ぎるかもしれませんが、今回は、この粗っぽい解釈でご勘弁ください。

苦痛と怒りの悪循環

 多くの人は、苦痛を感じると、苦痛に対して怒りを発します。また、自分に苦痛をもたらしたと見なした人やものごとに対して怒りを発します。
 「善因楽果・悪因苦果」の法則から見ますと、怒りを発することは、悪因をつくることになります。すると、そこから苦果が生じます。なんらかの苦痛を感じることとなってしまうのです。
 今度は、その苦果に対して怒りを発します。また、その苦果をもたらしたと見なした人やものごとにたいしても、怒りを発します。発した怒りが悪因となって、またまた苦果を生じます。そして、その苦果に対して、・・・。
 これでは、悪循環です。この悪循環をいつまでも繰り返しながら、年齢を重ね、怒りながら老人となり、ついには怒りながら死の床に就く、などと考えたら・・・。こんな悪循環は、出来るだけ早く断ち切るべきでありましょう。

さまざまな怒り

 「怒り」と言うと、大きな声で怒鳴り散らしている姿が思い浮かびます。しかし、それだけが怒りではありません。
 顔にも言葉にも出しませんが、お腹の中で煮えたぎっている怒りもあります。これが爆発すると、考えられないような乱暴な行動に走ることもあります。
 誰かに苦痛を与えられると、その人に対して怒りが生じます。その怒りが消えることなく、ずっと続くことがあります。これを恨みと言います。
 人が自分よりも幸せそうだと感じると、怒りがこみ上げることがあります。嫉妬です。恋人の浮気に対する怒りも嫉妬といいますが、これは、自分の幸せをないがしろにしたり、踏みにじろうとする者に対する怒りです。
 不平や不満も怒りの一種です。愚痴をこぼすという形で表面化したりしますが、不平・不満が膨らむと、前記のような怒りに発展することもあります。
 怒りには、まだまだ、さまざまなバリエーションがあります。とても書ききれるものではありません。

怒りは壊す

 怒りが生じると、ものを壊します。自分の大切なものでも、勢いよく壊してしまうことがあります。
 怒りが生じると、人を壊します。人の身体を傷つけたり、心を傷つけたり、生活を壊したりします。
 怒りを繰り返すと、人間関係が壊れます。怒りは、人を遠ざけるからです。夫婦喧嘩をして、三日も口をきかないなどというのも、このうちに入るかもしれません。
 怒りによって、社会と自分との関係を壊してしまうこともあります。怒ってばかりいる人は、世間とのお付き合いができにくくなるからです。
 何につけても怒り出す。ちょっとしたきっかけで怒鳴り出す。関係ない人にまで怒りをぶつける。こんなふうに怒りに支配されているとしたら、それは、自分が壊れてしまったからではないかと思います。
 「怒り」と「苦果」が連鎖して、「善因」を作るなど思い浮かぶこともなく、「楽果」など見たこともない。そんな人生は、まともとは思えません。これなどは、自分で自分の人生を壊してしまった姿というほかありません。

怒っている自分を観察する

 もし、怒っている自分がいたら、自分は苦しんでいる、と心の中で言いながら、自分を観察してみましょう。自分は何を怒っているのだろう、と。
 自分の思い通りにならないものごとを怒っているのだろうか。自分の言った通りにしない人を怒っているのだろうか。このようにして、自分の怒りを、確かめてみるのです。
 自分の怒りを、自分で直視し、確かめていると、怒りがおさまってしまうことも多いようです。これで、その場は一件落着かもしれません。
 しかし、何かあればすぐに怒り出す自分は、相変わらず、ここに居ます。本当は、自分の気に入らないことが起きても、怒らない自分になるべきではないでしょうか。
 怒りっぽい自分から、怒らない自分に変わる。
 そんなこと、できっこないとおっしゃるかも知れませんが、それができるのです。簡単ではありませんが、その気になって粘り強く取り組めば、現実に変わることができます。実際に変わった実例もあります。筆者もその一人ですから、明確に断言することができます。
 では、どのようにして、自分を変えるのか、その道筋を学んでみたいと思います。

怒る自分から怒らない自分へ

 「自分の気に食わないことが起きれば、すぐに怒り出す自分がいる」と、認めるところから、ステップが始まります。「ちょとしたことですぐ怒り出す自分」が、「何があっても怒らない自分」に変わるためのステップです。
 そんなこと無理だと、心の中で叫んだあなたは、しょっちゅう怒っておられるのでしょうか。そのために、決して怒らない自分をイメージすることができないのでしょうか。それは、幸せへのベクトルを失っている状態だと思って、ほぼ間違いありません。
 考えてごらんなさい、阿弥陀如来さまの極楽浄土で暮らす菩薩さまたちは、怒りを発するでしょうか。そんなことはとても考えられません。それは、理想世界のことであって、現実世界はそうはいかないと考えるかもしれませんが、そうではありません。怒りを発しない人は、少数かも知れませんが、実在します。怒りのない世界は、その気になれば、実現することが可能なのです。
 では、自分は、なぜ怒るのか。釈迦牟尼世尊の教えを参照しながら、自分をよくよく観察してみれば、その理由が分かると思います。

三毒とその根っこ

 仏教では「貪欲・瞋恚・愚痴」を三毒と呼んでいます。自分を損なう三つの毒という意味です。
 「貪欲(とんよく)」とは、飽くことなく貪り欲し、手段を選ばず求めてやまない欲望です。この根っこには執着があります。執着から貪欲が生じるのです。
 「瞋恚(しんに)」とは、怒りです。怒りの根っこには自分本位があります。自分本位がおおもととなって、怒りを発するのです。
 「愚痴(ぐち)」とは、智慧が無いことです。正しい法則を知らないために正しい行いができないのです。間違った法則を信じるために間違ったことを平気で行なうのです。その根っこは劣化した理性です。劣化した理性が基となって、愚かなことを考え、おろかな行為に走るのです。
 こうした根強い三毒が自分の中にあって、「悪因」を作り、「苦果」を生み出すのです。

怒りの根っこ

 自分は何故怒るのかといえば、自分本位に生きているからだと、三毒の教えが語っています。自分本位には、執着や、劣化した理性がまつわりついています。そうした迷いがあるために、人やものごとが、自分の思うようにならないと、怒りを発してしまうのです。
 自分本位があると、自分さえよければ他人はどうなっても構わないなどと思って、身勝手なことを考えたり、行ったりしてしまいます。
 自分を大切にすることと、自分本位に振る舞うこととは、雲泥の差があることに気づかなければなりません。
 自分本位が滅してしまえば、怒りを発することはなくなるはずです。怒りを発しないばかりか、相手のことを大切に思って考えたり行ったりするようになるはずです。

自分本位を滅するには

 自分の中にある自分本位を滅してしまえばよいといっても、それはかなり根深いものですから、おいそれと滅することができるものではありません。とはいえ、放置しておけば、自分は怒り続けてしまいます。やはり、自分本位を滅する努力をするほかないと思います。
 釈迦牟尼世尊は、自分本位を滅するためには、八正道を実践すればよいと教えてくださいました。八正道を実践すれば、自分本位を押さえたり、方向づけしたりすることができるようになります。また、自分本位とはまったく逆の心が育って、「先ず人さま」というような行動が、できるようになるのです。
 こうして八正道の実践に努めれば、自分本位が次第に薄まります。そのうちに自分本位は滅します。そして、怒りが生じることは無くなります。
 しかし、自分の力だけで八正道を実践し続けるのは至難です。やはり、然るべき指導者を得たいと思います。また、ともに修行する仲間を得たいと思います。
 どうしても、身近に指導者や仲間を得ることができなければ、ひたすら、釈迦牟尼世尊を念じながら、教えを学び実践するという努力を続けることになるでしょう。
 原始仏典に説かれる信仰は、指導者と、教えと、修行仲間を信頼することですが、そのような信仰が、自分本位を滅する修行では、大きな力を発揮すると思います。