四苦八苦
「もう、四苦八苦したよ」と話をされますと、よほど苦労したんだなと思います。「四苦八苦」は、仏教からきた言葉ですが、現代では、たいへんな苦労をしたというような意味で使われています。
仏教で「四苦八苦」は「生・老・病・死の四苦に、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)の四つの苦を合わせたもの」と説明されています。
生・老・病・死の苦
「生」とは、この世に生まれることです。娑婆と呼ばれる、苦しみを耐え忍ばなければならない世界に生まれることが苦しみなのです。
「老」とは、老いることですが、単に齢を重ねることではなく、老い衰えることを苦しんでいるのでありましょう。
「病」とは、病気や怪我をすることです。苦痛が生じたり、身体の自由が効かなくなったりして、苦しむのだと思います。
「死」とは、死ぬことです。死にたくないと思っても、死はやってきます。死ぬのは怖い、死んだあとはどうなるのだろうと苦しむのでありましょう。
人間関係の苦
「愛別離苦」は、阿含経には「愛するものと別離するは苦である」とあります。愛する人とはずっと一緒にいたいのに、どうしても別れなければならないとしたら、それは苦しむことでしょう。
「怨憎会苦」は、阿含経には「怨憎するものに遭うは苦である」とあります。大嫌いで、顔を見るのも嫌だという人と会わなければならなかったら、苦しむことでしょう。
この二つは、人間関係の苦しみということができます。
求めても得られない苦
「求不得苦」は、阿含経には、「求めて得ざるは苦である」とあります。
お金を求めたけれど、得られなかった。物を求めたけれど、得られなかった。人の愛情を求めたけれど、得られなかった。社会的地位を求めたけれど、得られなかった。
人は、さまざまなものを求めますが、得られないことが多いのです。そうすると、苦が生じます。いわゆる、思い通りにならない苦しみです。人生は、ままならないと嘆く人もいます。
人間存在の苦
「五陰盛苦」は、阿含経には「総じていえば、この人間の存在を構成するものはすべて苦である」とあります。
人間の存在を構成するものは、身体と精神です。
このうち、精神は、感覚・表象・意思・意識の四つに分析されます。人間は一つの身体的要素と四つの精神的要素で構成されています。この五つの要素を五陰(ごおん)と言います。
人間存在を構成する五陰がすべて苦であるとすれば、人間存在そのものが苦であり、人間として生きる限り苦しむということになります。
精神的な苦
生・老・病・死、愛別離苦、怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦に加えて、阿含経には「嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは苦である」とあります。
嘆く、悲しむ、苦しむ、憂うる、悩む、これはすべて精神的な苦です。心が苦しむのです。
精神的な苦は、まず、感情的な苦です。ここには、さまざまな苦の感情が表現されています。
精神的な苦の中に、理性が絡んでいるらしいものもあります。「悩む」です。理性が絡んでいても、どうしたらいいのか分からないので、悩んでいるのです。やはり、最後は、感情的な苦になってしまいます。
二重の苦しみ
阿含経の「箭(や)によりて」と題する経文によれば、箭に射られて身体に苦痛が生じると、これによって心が苦しみます。身体の苦痛と心の苦しみと、二つの苦を受けるとあります。
お釈迦さまの教えを聞いて修行する人は、箭に射られると、やはり身体に苦痛が生じます。けれども、それによって心に苦しみを生じることはありません。心が乱れることはありません。
この人は、理性が正しくはたらいて、心を正しく整えることができます。心は乱れないのです。
嘆く、悲しむ、苦しむ、憂うる、悩むなどの心の苦しみが生じるかどうか、心が乱れるかどうかは、人によることが分かります。
四苦八苦は精神的な苦
生まれる、老いる、病む、死ぬという現象は、生きとし生けるものすべてが経験することばかりです。避けようと思っても避けられないことばかりです。その一つ一つを、人は苦しむというのです。
生・老・病・死のそれぞれに苦痛はあると思います。それは、箭に射られた苦痛と同じ意味での苦痛です。それに加えて、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みという精神的な苦しみが生じるのです。心が乱れるのです。
愛する人と別れるときには、さびしくなることもあります。それは、自然な情愛でありましょう。多くの人は、これに加えて、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みを生じ、心を乱します。
大嫌いな人と出合ったときには、嫌悪感が生じます。これも苦痛の一つです。この苦痛に加えて、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みを生じ、心を乱す人も少なくありません。
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欲しいものが手に入らないときに、残念がったり、がっかりすることは、自然なことでしょう。しかし、それで終わらずに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みを生じ、騒ぎ立てる人もいます。
五陰(肉体と精神)をそなえて、人間として生きる限り、四苦八苦をはじめ、多くの苦しみが襲ってきます。苦しみに襲われるたびに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みを生じ、心を乱して、生涯を苦しみ抜く人も少なくありません。
苦しみを受けて心が乱れると、ますます苦しみが大きくなり、悩みが深くなるのです。
心を乱さない
お釈迦さまの教えを聞いて修行する人も、四苦八苦に出合います。それは、さきほどの「箭に射られる」のと、同じ意味合いです。
この人は、四苦八苦に出合っても、心を乱すことがありません。それは、理性が正しくはたらいて、心を整えることができるからです。
娑婆に生まれても、老い衰えても、傷病に見舞われても、死を目前にしても、理性的に、正面から受け止めて、正しい道を歩み続けます。
愛する人と別離してさびしいときも、理性がはたらいて自分を立て直します。
嫌いな人に出遭って嫌悪感が生じても、理性のはたらきによって節度を保ち、自分の為すべきことを為し続けます。
求めるものが得られなくても、事態を理性で受け止めますから、不平不満を起こすこともなく、平常心を保ち続けます。
五陰に苦しみが生じても、ひとつひとつ、正しく対処して乗り越えていきます。
こうして、お釈迦さまの教えを聞いて修行する人は、いかなる苦しみが生じても、心を乱さず、正しい道から外れることなく、真の人間として生き続け、価値ある人生を送ることができるのです。
苦を受け止める
私が師と仰ぐ庭野日敬師は、次のように述べておられます。
「(人生はさまざまな苦に満ちているけれども)その人生苦から中途半端な逃げかくれかたをしないで、その実態を直視し、みきわめる。それが苦諦です」
苦諦とは、人生苦を明らかにすることです。人生苦が明らかになりますと、それだけでも、心が軽くなり、前に進むモチベーションが高まってきます。
中途半端な逃げかくれをするとは、お酒に浸って苦しみを忘れようとするとか、苦しいことは考えないようにするとか、彼奴が悪い、此奴が悪いと人のせいにするとか、そんなふうにして苦しみから逃げようとすることです。そんなことをしても、苦しみは、つきまとって離れません。
そんな中途半端なことはしないで、苦しみを正面から受け止め、正面から見据えるのです。
自分は、生・老・病・死を苦しんでいるのだろうか。それとも、人間関係に苦しんでいるのだろうか。求めても得られないので苦しんでいるのだろうか。。もっとほかのことを苦しんでいるのだろうか。
自分はこの苦を嘆いているのか、悲しんでいるのか、苦しんでいるのか、憂えているのか、悩んでいるのか、もっとほかの苦しみ方をしているのか。
こうして、自分の苦しみの実態を直視し、みきわめるのです。こうして、苦が明らかになりますと、心が楽になります。そこまできましたら、苦をなくすための手順へ入ることができます。
苦をなくす手順については、稿を改めて、お話しさせていただきたいと思います。