阿含経に学ぶ-19(再び、怒りについて)      浪 宏友


 本誌の令和三年秋号で、怒りについて書かせていただきました。その後、少しだけ勉強が進みましたので、再度、怒りについて書かせていただきたいと思います。

三毒

 仏教に三毒という概念があります。三つの毒という意味で、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)を指します。
 毒とは、生物が健全に生きようとするとき、これを阻害する物質を言います。
仏教の言う毒は「健全な人生を阻害する心」です。心の中に貪欲・瞋恚・愚痴を持っていると、健全な人生を歩むことが困難になるのです。
 今回は、このうちの瞋恚について、考えてみたいと思います。

瞋恚

 瞋恚とは、怒りです。瞋も、恚も、怒りという意味を持っています。ここでは、人間関係における怒りを念頭に、お話を進めます。
 私の印象では、怒りは総じて、破壊的な感情です。怒りに支配されると、ものを壊します。人を傷つけます。人間関係を壊します。そのあげくに、自分を壊し、自分の人生を壊します。
 仏教は、怒りについて、さまざまに説いています。これらを参考にして、どんな怒りがあるか、見てみたいと思います。
 相手から攻撃を受けたとき、相手をやっつける行動に出る怒りがあります。両者が怒って、双方からやりあえば、喧嘩になります。
 怒りが生じると、荒々しい言葉、汚い言葉で、相手に みつき、相手の急所や弱みなど、嫌がることを言ってやっつけようとします。両者でこれをやりあえば、ののしりあいになります。
 相手を傷つける怒りがあります。相手の肉体を傷つけます。相手の心を傷つけます。相手の社会的な名誉や立場を傷つけます。こうして、相手の人生に傷をつけようとします。
 人から攻撃を受けて怒りが生じ、その怒りがずっと続くことがあります。これが恨みです。恨み続けた挙句に、相手をやっつけようとします。仕返しとか、かたき討ちなどです。
 ねたみも怒りのひとつです。相手が成功すると腹が立つ、相手が幸せそうだと壊してやりたくなる、そういう怒りの感情です。
 人から痛いところを注意されると怒りが生じ、倍返しに言い返したりします。怒りには反省はありません。
 自分が世間的に恥ずかしいことをしていると感じても、やめるどころか、開き直ったり、ふてくされたりするという怒りがあります。
 不平不満も怒りの感情です。少なくとも怒りの種です。これがだんだん大きくなって、激しい怒りになることもあります。
 とにかく、怒りが生じると、そこから不穏な行動が出てくることが分かります。

怒りは二次感情

 怒りは、苦しみに対して、また、苦しみの原因に対して生ずる破壊的な感情です。苦しいことに怒りを生じ、この苦しみはあいつが作ったんだと思い込んで怒りを生じるのです。
 苦しみが生ずるというのは、苦しいという感情が生ずるということです。そして、苦しいという感情が生じると、そこから怒りという感情が生じるのです。
 苦しみの感情がまずあって、そこから怒りの感情が生じるという関係から、現代の心理学では、怒りは二次感情であると言っています。
 苦しみから怒りが生じるということは、怒っている人は、必ず、苦しんでいるということです。だとすれば、怒っている人は、私は苦しんでいます、その苦しみに振り回されています、どうすることもできませんと、告白しているようなものです。

生老病死の苦

   苦しいという感情は、さまざまなことから生じます。まず、生・老・病・死の苦を見てみましょう。
 生まれるという苦しみがあります。煩悩と苦悩に満ちた娑婆世界に生まれる苦しみです。
 老いるという苦しみがあります。老いて、肉体が衰え、精神が衰え、社会的な立場が衰え、人格が衰えます。  病気や怪我をするという苦しみがあります。病気や怪我で、思うように動けなくなり、したいこと、これまで出来ていたことが、出来なくなる。そんな苦しみが起きてきます。
 死ぬという苦しみがあります。まだやりたいことがあるのに、死が迫ります。死んだあとはどうなるのか分からないので、不安です。死にたくない、生きていたいともがいても、死はやってきます。
 こうした、生まれる、老いる、病気をする、死ぬという四つの苦しみをまとめて、生老病死の四苦と呼んでいます。

日常的な苦

 仏教は、日常的な苦を説いています。
 顔も見たくないほど憎たらしい人と一緒に居なければならないとしたら、その苦しみは耐えがたいものでありましょう。これは、人間関係の苦のひとつです。
 いつまでも一緒に居て欲しい人が、否応なく、自分から離れていったら、言葉にできないほどの苦しみを味わうでしょう。失恋もあれば、親族との死別もあります。頼りにしている人から見放されるという苦しみもあります。これも、人間関係の苦です。
 欲しいものを手に入れることができないときは苦しみます。お金が欲しいけれど入ってこない。あの人と結婚したいけれど振られちゃった。出世したかったのに後輩に先を越された。世の中は、欲しいものが手に入らないように出来ているんじゃないかと思ってしまいます。
 体と心を備えて生きているかぎり、さまざまな苦しみが、次から次へと襲ってきます。実に人生は苦に満ちていると言っていいかもしれません。
 この四つの苦は、「怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五陰盛苦」と呼ばれ、先の四苦と合わせて八苦と呼ばれています。

苦の感情

 苦しみが生じるというのは、苦しいという感情が生じるということです。あるものごとに接すると、自分の中に、苦しみの感情が湧いてくるのです。
 苦しいという感情には、人により、場合によって、さまざまな色合いがあります。これを、仏教は、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みと言っています。苦しみの感情には、数えきれないほどの色合いがありますが、それをこの五つに代表させてあるわけです。
 苦しみの感情は、心の奥から湧き出してきます。湧き出してきた苦しみの感情に突き動かされて、人はさまざまなことを行ないます。そのひとつが、怒りです。
 

苦しみと怒りの悪循環

 善因楽果・悪因苦果の法則から見ますと、苦しみという結果が生じているからには、どこかで悪因を作っているのです。
 悪因を作るとは、するべきことをしなかったり、してはならないことをすることです。言うべきことを言わなかったり、言ってはならないことを言うことです。
 悪因を作ると、苦しみが生じます。苦しみから怒りが生じます。怒っていると、するべきことをせず、言うべきことを言いません。してはならないことをし、言ってはならないことを言います。こうして悪因を作ります。
 悪因を作りますと、苦しみが生じます。苦しみが生じるとまた、怒りが生じ……。
 これは、悪循環です。この悪循環は、どこかで断ち切らない限り、一生涯、続くことになります。なんとか、断ち切りたいものです。

苦しみは警報

 悪因苦果という法則から考えてみます。  今、苦果が出ているのは、どこかで悪因を作ったからです。今も、同じ悪因を作っていたら、同じ苦果が続きます。悪因を作るのを、やめれば、苦果は出なくなります。
 ここから、苦しみは警報、警告だと分かります。同じ悪因を作るのを止めましょうと、警鐘を鳴らしているのです。
 苦果の警報、警告を素直に受け取って、悪因を作るのをやめれば、苦果は出なくなります。 しかし、困ったことに、多くの人は、自分がどんな悪因を作ったのか、分からないまま、苦しみに負けて、怒りに走ってしまうのです。
 苦しみを、警報、警告と受け止められた人には、お釈迦さまがお説きになった、四つの聖諦を学び、理解し、実践することをお勧めします。ここには、苦しみを無くす道が、懇切に説かれているからです。