一切皆苦                北 貢一


  ◇「本来なかった食べ物のタブー」

 古代インドのカースト(世襲的な階級制度)制の一つ、バラモン階級の人々の人生は「四住期(しじゅうき)」といわれ、四つの時期に分けられておりました。
 最初は「学生期(がくしょうき)」といい、学問を学ぶ時期。それから、社会人となり家長として一家の責任を担う時期の「家長期(かちょうき)」。そして、家長としての責任を果たし終えた後に自ら人里を離れたところで自活する「林住期(りんじゅうき)」。来し方を顧みながら、残り少ない行く末をどう生きていくかと思案するという時期です。最後は「遊行期(ゆぎょうき)」。遊行というのは遍歴をしながら、乞食(こつじき)、食を乞うということです。ひたすら解脱を求める生活、心ゆたかに最後の人生を終わっていくということです。
 五体を維持するためには、食事をとらなければいけません。他人の家の軒下に立って食事を乞う(乞食)ことを、仏教では「頭陀行(ずだぎょう)」といわれています。乞食をするために頭陀の行をするわけですね。四国のお遍路さんなどは白衣を着て、前に小さな袋を下げておりますが、この小さな袋の中に最低限なければ生きてはいけないという必需品を入れています。それを「頭陀袋(ずだぶくろ)」といいます。「頭陀袋」の頭陀はここからきています。
 日本の仏教の中にもある修行の一つは「常乞食(じょうこつじき)」といいます。三度三度の食事を常に乞食によって得、五体を維持していく。それから、「次第乞食(しだいこつじき)」といわれるものがあります。次第というのは、ある一軒の家の前に立ったら、その次はお隣、その次はさらにそのお隣ということで、おいしそうなものをくれる家だけを選んでその軒下に立つ、ということを絶対してはいけないとされています。
 仏教では食べ物を、好きとか嫌いとかいって避けることはできません。つまり、本来、食べ物に対するタブーは仏教にはないのです。お金を払ったにしても、とにかく出していただいたものは感謝していただく。これが、仏教の作法です。ついでに申し上げますが、仏教とは着るもの、衣も「三衣(さんえ)」といいまして、三枚しか持ちません。
 遊行は、遊びに行くと書きますけれども、仏教では「遊び」を非常に大事にします。たとえば、車のハンドルにまったく遊びがなかったら、ちょっと動かしたらギュッと曲がってしまうのでおっかなくて運転できませんね。同じように、人生にも遊び、「ゆとり」が必要だということです。
 また、遊戯は仏教読みで「ゆけ」あるいは「ゆげ」と濁って発音します。これは遊び戯れるかのように修行しろ、ということです。歯を食いしばって、ものすごい顔をして、私は修行しているんだ、と見せびらかすような「行」は、本当の「行」ではないということです。

  ◇「あらゆる事象は機会、条件で変わる」

   仏教の場合、お釈迦様が優先ではございません。「法」が最優先されます。「法」というのはインドでは仏教以外にも「ダルマ」という言葉で使われておりますので、仏教でいうところの「法」であるということで「仏法(ぶっぽう)」と呼ぶ場合があります。
 私たちが住んでいる世界で起こるありとあらゆる事象は、機会、条件によって成り立っています。それを仏教では「縁(えん)」といいます。機会、条件は刻々と変化していますから、変化しながらいろんな現象が起こる。人間はそれに順応できないときに、苦しみ、悩みを持つのです。これを「縁起(えんぎ)なる法」といいます。そして、縁に順応できない分、私たちは苦しみ、悩まねばならないということで、お釈迦様はそれを「一切皆苦」と、示されたわけです。
 苦しみ悩みはつきないけれども、でも結構たのしいこともいっぱいあるじゃないか、と。一方で、この楽しいこともなかなか続かない。仏教の場合には、「楽しいからといって、いつまでもその楽しみにうつつを抜かしてはいけないし、苦しいから辛いんだからといって、いつまでもそれにとらわれてはいけない、いかにしてそこから抜け出していくか」、それが人生の大きな課題としてございます。

  ◇「死への備え」

    弘安元年、西暦にしますと一二七八年の七月十四日付で、日蓮上人が妙法尼に出した手紙があります。
 手紙の題は「妙法尼御前御返事」と、お弟子さんに「御前」と「御返事」の二つもの敬語を使っています。日蓮上人という方は、自分が師匠だぞと威張るわけでもなく、人間をみんな貴く扱っておられるのが、この文字から推察できます。岩波文庫から『日蓮文集』仏教的に言いますと「にちれんもんじゅう」といいますが、そこからの抜き書きを、お話ししたいと思います。
「人の寿命、人の命は無常なり」
 先ほど申しましたように、常に機会とか条件は変化しております。それが無常です。この無常、はかない面もありますが、いい面もあるわけです。しかし、とにかく、人の寿命は無常である。いつどんな変化が生じて、大病を患ったり、それがもとで死んだりすることがあるかもしれない、ということです。
 「……人の寿命は無常なり。出(いず)る気は入(い)る気を待つことなし」
 だから、呼吸ができなくなって、しぬしかないという状態になることもある。それをたとえていうのなら、
「風の前の露、なお譬えに非ず」
 夜露、朝露の露、あれは無風状態の時にはちゃんとくっついています。しかし、少し重みがあると、ポトンと落ちます。風が強ければ強いほど、葉の上に露が溜まりません。夜露とか朝露とかというのは、無風状態か微風状態の時に存在するのです。ですから、ちょうど溜まろうとする露が、風のために吹き飛ばされていくようなことも、私たちの人生にはある。
「かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも定め無き習いなり」
 一定の寿命をつつがなく送るという人は、案外少ないんだぞ、ということ。この日蓮上人の時代は十三世紀の頃ですから、まさに字のごとし、文のごとしです。最後の行が大事ですね。
「されば、先ず臨終の事を習(なろ)うて後に他事を習うべし……」
 臨終、あるいは死なないまでも、死にたくなるほど辛い時、人生最悪の事態=死ですが、このことにまず対処する心構えをつくっておく。しかる後に、
「他事を習うべし」
 その他のことをすれば、最悪の事態に比べれば、いろんな事態もたいしたことなく対処できるようになる、というお言葉です。