妙法と蓮華                北 貢一


  ◇「蓮華」

 お釈迦さまが「仏法」と言われる「縁起なる法」を悟り、初めて五比丘(びく)(=五人の出家修行者)に説いたのが「中(ちゅう)」です。
 この「中」はちょうど真ん中というような感じなのですが、物事の中心というよりも、重心と考えていただいたほうがいいでしょう。
 私たちは偏った考え方をしやすいものです。そして、自分は正しい、自分が考えることは間違いないんだと思う人ほど、人に対抗意識を持ち、それが争いの種になることが往々にしてあります。また、争うことによって、悩んだり、苦しんだりする。
 お釈迦さまは、そういう愚かなことは「いい加減によしなさい」ということで「仏法」を説かれたのです。
 自分を認めてもらうことも結構ですが、他も認めなさいということです。
 では、その「仏法」が、有名な経典である『妙法蓮華経』にどう現われているかについて考えたいと思います。
 蓮の華は色とりどりあるのですが、『妙法蓮華経』の「蓮華」は一番汚れが目立つ白い蓮の華です。汚い泥沼に根を下ろし、そこで芽を出します。そして大きな葉っぱを沼の水面に浮かべ、さらに茎を伸ばして華を咲かせます。
 妙法では、世の中を「娑婆(しゃば)」といい、インドの古語(原語)では「サハー」です。「娑婆」にはもともとは「忍土」という意味がございます。「忍」つまり、手放しに喜んでばかりいられるような世の中じゃない、悩み、苦しみが多い世の中だということです。
 蓮は汚い泥沼の中に根を下ろしながら、蓮の華は汚れに染まらずに美しく咲いている。そういう状況を「娑婆」に対して「寂光土(じゃっこうど)」といい、「煩悩(ぼんのう)」に対して「菩提(ぼだい)」といっております。
 このことを踏まえて、「娑婆即寂光土」「煩悩即菩提」という教えがあります。どちらも「即」の字で繋がっています。この「即」がどういう意味かと申しますと「離れざるもの」、「不離」です。
 つまり、「煩悩」も、「菩提」も、あるいは「娑婆」も、「寂光土」も、別々ではないということです。たとえていうなら、紙の表と裏だということです。
 紙の一方は表で、その反対側が裏です。じゃあ、表と裏はまったく別かというと、別ではないのです。
もし、表面が用無しになって×印をすると、裏は真っ白だから、そちらが表になります。つまり、表が裏になってしまうのです。ですので、表だとか裏だとかは固定できないし、固定してはいけないんだといえます。
 したがって、「娑婆」だからといって「住み辛い、住み辛い」と固定してもいけないし、美しい心である「菩提」といえども、あまりに大事にしすぎてもいけないといえます。

  ◇「己を知るを仏という」

   昔、鳩摩羅什(くまらじゅう)という中国の僧がいました。「縁起なる法」を漢訳するにあたって、「妙法」と訳しました。
 頭に「妙」がついていますが、「妙」という字にはどんな意味があるかというと「不可思議」です。一体何を指して「不可思議」かというと、実は人間の心のことをいっているのです。
 自分の心は自分が一番知っていないといけないはずです。しかし、本当に自分のことを自分が一番知っているかは疑わしいものです。
 『妙法蓮華経』からすると、「(経典の意味が分からなければ)自分に解答を求めろ」ということになります。けれども、それをするのは難しいです。たとえば、自分の目で「物」を見ることはできます。しかし、己の目によって、「己の顔」を見ることはできません。それと同じことなのです。
 こういうお話をしますと、反論がでます。だから鏡があるじゃないか、写真があるじゃないかと。しかし、同じ瞬間に見ている己の顔ではありませんね。顔は瞬間瞬間、変化し続けています。一体いつの時の顔が本当の自分の顔かはわかりません。
  「己を知るを仏という」という言葉があります。己を知った時、それが実は仏なのであるということです。いかに己を知ることが大事かということです。己を知るためには鏡に相当する、写真に相当するものが必要になる。それが何かというと「自分以外」です。
 ある方が「自分以外、皆わが師」とおっしゃいました。その通りだと思います。

  ◇「良寛さん」

    「妙法蓮華経」第十五番目の「従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)」に、「善学菩薩道 不染世間法 如蓮華在水(ぜんがくぼさつどう ふぜんせけんほう にょれんげざいすい)」と、人間の理想像が描かれております。
 これは、「よく菩薩の道を学んで、染まりやすい世間にありながら世間の悪いところに染まらずに、美しく蓮の華が咲いている」という意味です。
 ここに出てくる菩薩は、いうなれば「無名の菩薩」です。有名になろうとか、無名でいようとかに一切こだわらない菩薩です。
 また、「待機の菩薩」ともいわれます。機が熟するのを待っている。そして「在家の菩薩」でもあります。つまり仏教の専門家ではないということです。しかし、『妙法蓮華経』の精神を備えている人間です。常に人様の幸せを願い、考えている菩薩ということです。
 「掃き溜めに鶴」という言葉があります。「娑婆」を掃き溜めにたとえたとすると、菩薩はその身を置くところがどんなに汚れていようと、汚いものに染まらないであろうということです。
 その人間の理想像、典型が良寛和尚です。良寛さんは学べば学ぶほど、まさに無名の人です。一応、禅宗のお坊さんですが、僧としての籍はどこにもありません。そんな良寛さんはなぜ後世まで伝えられているのでしょうか。それは理想とする生き方をなさっていたからではないでしょうか。
 良寛さんが交わったのは在家の人たち、特に子どもたちです。農繁期、一番農家の方々が子どもたちの面倒をみられない時期に、子どもたちと良寛さんは日なが一日遊び暮らしました。「ああ、良寛さんが一緒に遊んでくれているから安心だ」と、農家の人たちは総出で野良へ行って仕事に専念できました。
 ある人は良寛さんを、「保育士第一号」といったそうですが、まさにそうだなと思います。