「仏教だけを学ぶな」といったお釈迦様         北 貢一


  ◇「誤った信仰の恐ろしさ」

 お釈迦様がお説法をされた場所を「会座〈えざ〉」と申します。『妙法蓮華経』(二十八品〈ほん〉)という経典は、三回の「会座」で成り立っています。
 第一回目の「会座」は「霊山会〈りょうぜんえ〉」。「現実直視」がテーマのこの場面で説かれたお説法は、第一品(序品〈じょほん〉)から第十品(法師品〈ほっしほん〉)までです。
 第二回目の「会座」の内容は第十一品(見宝塔品〈けんほうとうほん〉)から第二十二品(嘱累品〈ぞくるいほん〉)までです。これは「理想」をテーマとして、第十六品(如来寿量品〈にょらいじゅりょうほん〉)を中心に展開されます。第一回目の「会座」で直視した現実を踏まえて、「では、理想はどうあればいいのか」ということが説かれています。
 第三回目は第二十三品から第二十八品までです。
 仏教では、信仰の対象を「本尊」といっております。第二回目の「会座」では、この「本尊」が明らかになりますが、ここではじめて信仰という概念が出てきます。
 ほとんどの宗教のお経典では、信仰が最初に出てきます。一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教にしましても、まず最初に出てくるのが信仰、「信」の問題です。
 ところが、仏教ではお釈迦様ご在世の時から、信仰は後回しなのです。まず智慧が最優先となります。それは、なぜかというと、信仰を先にすると、何でもかんでも信仰で物事を考えようとする傾向となるからです。それが、正しい信仰であればいいのですが、誤った信仰だと危険があるのです。
 オウム真理教(現・アーレフ)は誤った信仰の最たるものです。また、私はイスラム教のことも少し勉強させていただいたのですが、本来はあんな危険な、自爆行為までするような「教え」は説かれていなかったと思います。
 信仰というのは、鵜呑みにすると恐ろしいことを生み出すものだと思います。そういう問題を、お釈迦様は警戒されて、信仰を二の次にして、まずは正しい理論の理解を打ち出されたのです。

  ◇「霊性」

 お釈迦様が悟られた真理を仏教では「真如〈しんにょ〉」といっております。そして、「『真如』から来た人」という意味で、お釈迦様を「如来〈にょらい〉」ともいっております。
 第十六品(如来寿量品)では、「如来」である仏様の命(寿)は計り(量り)知れないとしております。
 つまり、お釈迦様の肉体は有限だろうと、その「法」は無限の命を持っているということです。そして、その「法」が仏教の信仰の対象たる「本尊」だとしているのです。
 お釈迦様がお説きになられた「法」を、後世の人たちは、お経典にまとめて残してくださいました。そのお経典の数は膨大なもので、八万四千あるともいわれております。
 仏教にはいろんな仏様とお経典がございます。たとえば浄土系では、阿弥陀如来がお経典をお説きになったとされており、真言系ですと大日如来がお経典をお説きになったことになっております。
 しかし、歴史上で実在の仏様は、お釈迦様だけなのです。
 お釈迦様だけが私たちと同じように母親のお腹から生まれ、八十年で死んでいかれました。そして「如来寿量品」では、仏教のすべてのお経典を説かれたのは、お釈迦様だと示されております。
 仏教で説かれるすべての真理は、お釈迦様が「発見」されたものとされております。それまで誰も気づかなかった真理をお釈迦様が「発見」したのだという立場です。
 ですからお釈迦様は、「私が発見した真理なる『法』は、私が悟ろうが悟るまいが、はるか昔から存在したものだ。私は、たまたま見い出したにすぎないのだ」といっております。
 したがいまして、お釈迦様はお亡くなりになりましたが、「法」が存在する限り、その真理も永遠に存在しているということになるのです。
 最近、「霊性」という言葉がマスコミでも多く使われるようになりました。精神的なもの、宗教心があるものを spiritual 〈スピリチュアル〉と英語ではいいます。宗教の東西交流が始まって、この言葉を日本語に訳す際、どういえばいいのだろうかということになり、「霊性」という言葉があてられたように思います。
 知ると知らざるとにかかわらず、人間は本来、「霊性」のようなものを持っているという考えがあります。このような考えが、仏教の立場であり、経典「妙法蓮華経」の立場でもあり、あるいは、他の一神教や多神教の「教え」の根幹になっているのではなかろうかと思っております。

  ◇「他の宗教も学ぶ」

 不思議と、お釈迦様とほぼ同時期に、この世に世界の四大聖人と呼ばれるソクラテス、孔子、キリストといった方々がいらっしゃいました。
 この方々は、仏教の立場からは、みんな聖者であり賢者なんだといえるのです。お釈迦様は前述した「如来寿量品」でも、「仏教徒だからといって、私だけを尊く扱ってくれるな」といっております。
 私の他にも、世に聖人、賢人といわれる方は大勢いる。その方々も立派な真理を説き残しておられる。だから、信仰が違うからといって、分け隔てしてはいけない。けなすようなことをしてはいけない。尊重しなくてはいけないといっております。
 私はここに宗教協力の原点があるのではないかと思います。つまり、他の宗教と仲良くできる原点があるのではないだろうかと思うのです。
 それなのに、少しの信仰の違いにこだわって、宗教戦争等を起こす。こんな愚かなことはないんだということが「如来寿量品」から読みとれます。ですから、自分以外の人が他の宗教を信仰していても、その信仰の違いによって争うのではなくて、違いは違いとして認めながら、違いを学んでいくことが重要なのです。
 観念論哲学者として有名なドイツのカントがこういったそうです。「一つの言語しか知らない者は、その言語をも知らないに等しい」と。
 その論法でいくと、「一つの宗教しか知らない者は、実はその宗教のことを何もわかってはいない」ということになります。
 ですから、お釈迦様のことだけを尊敬している仏教徒は、お釈迦様を尊敬したに値しないぞ、ということになるのです。
 他の聖人、賢人が大勢いるのだから、そういう人たちのことも知り、その中で自分に一番適したものを選ぶ。場合によっては仏教徒からクリスチャンになったってかまわないというのが、『妙法蓮華経』の考え方なのです。