仏教と「怒り」の感情               北 貢一


 腹立たしい事件や出来事が多い世の中です。テレビ等で腹を立てている人の顔を見たり、話を聞いたりしていると、ああもっともだなと、いつの間にか自分も怒っていることも、よくあることです。穏やかな心持ちでいたい、いつも仏像のような柔和な表情でいたいと願っても、なかなかままならないものです。
 仏教は「腹を立ててはいけません」と教えます。しかしその一方で、仏教では仏法を守護する善人たちを神と呼び崇めていますが、その神像の代表に、これ以上ないほど激しい憤怒の表情を浮かべている仁王様もいらっしゃいます。
 仏教において、「怒り」とはどのように考えられているのか、今回はそうしたことを考えてまいります。

  ◇「風にむかって土を投ず」

    私が深く傾倒させていただいた、仏教学者の故・増谷文雄先生が著した『仏教百話』(筑摩書房)という本がございます。その中から、怒りに関するお話を二つご紹介したいと思います。
 まず最初は、第三十九話の「風にむかって土を投ず−瞋恚(しんに)」です。「瞋恚」は、怒り恨むことを表す仏教用語です。このお話の舞台になったのは、サーヴァッティ(舎衛城)という場所です。有名な祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)は、この舎衛城の郊外にあります。
 ある時、舎衛城の中で托鉢をして歩いていた仏陀のもとに、一人の婆羅門(バラモンの漢音訳)がやってまいります。そして仏陀に近づくやいなや、突然、大声で罵声を仏陀に浴びせます。
 婆羅門とは、当時のインドにおける伝統宗教の高僧のことです。彼らから見れば、新興の仏教を広めている新参者の仏陀が面白くない。仏教の発展を見聞きすると苛立ってしまう。そのため、仏陀を見るやいなや罵声を浴びせかけてきたわけです。
 ところが、仏陀は平然として托鉢を続けます。ますます婆羅門は腹を立て、しまいには足元にあった土塊を拾って仏陀に向かって投げつけました。すると、その瞬間、一陣の強い風が、仏陀のほうから婆羅門に向かって吹きました。投げつけた土塊は砂煙となって、婆羅門の顔や体、目に降りかかります。
 慌てふためく婆羅門の様子を静かに見ていた仏陀は、次のようなお経文を唱えます。「もし人、故なくして悪語を放ち怒罵をあびせ、清浄無垢なる者を汚さんとなさば、その悪かえって己に帰せん。たとえば、土をとってその人に投ずれば、風にさかろうてかえってみずからを汚すがごとし」
 人を害そうとすると、かえって己を害すことになる。そうした「戒め」が、ここに示されています。

  ◇仏陀と婆羅門の問答

    もう一つは、第四十話「そは汝のものなり」というお話です。
 仏陀のもとに、また一人の婆羅門がやってまいります。この婆羅門も、やはり隆々発展していく仏教を好ましく思っておらず、これまた悪口雑言を激しく仏陀に浴びせかけました。
 しかし、仏陀は、「うん、そうか。そうか」と頷きながらずっと静かに聞いている。罵声を浴びせ続け、婆羅門がいい疲れたところで、仏陀は、次のような問いかけをします。
「婆羅門よ、ところで、君の家にも時にはお客さんが訪ねてくるだろう。その時にはそのお客さんにご馳走することもあるか」
「もちろん、ある」
「では、もしその時、お客さんに事情があって、ご馳走に全然手をつけないでお帰りになられるとすれば、そのご馳走は誰のものになるだろうか」
「それはまた、わたしのものとなるよりほかにはない」
 ここまで仏陀は、婆羅門にずっと「イエス」と答えさせるような質問をし、最後にこう話します。
「あなたは、私の前にたくさん悪しき言葉を並べたけれど、私はそれに手をつけずに帰る」
 つまり、自身が並べた悪口雑言、これは自分で処分するしかない。そういう「教え」です。そして、次のような言葉を婆羅門にいいます。
「忿れるものにいかりかえすは、悪しきことと知らねばならぬ。忿れる者にいかりかえさぬ者は、二つの勝利を得るのである。他人のいかれるを知りて、正念に己を鎮める者は、よく己に勝つとともに、また他人に勝てるのである」
 自己を穏やかにすることにより、他人の心にも穏やかさを保たせることができる、という教え。そして、怒りを抑えて穏やかにいることで、己に勝つと同時に他人にも勝てる、という表現がお経文としてなされています。いい換えると「克己心(こっきしん)」ということでしょうか。

  ◇怒りの根底にある「貪欲」

    お話に登場しました「瞋恚」は、自分の心に逆らうものを怒り恨むことと、冒頭で申し上げました。百八の煩悩の中で、善心を最も害し、仏道の障害となるものとして自己の欲するものに執着して飽くことを知らない「貪欲(とんよく)」、理非の区別のつかない愚かな「愚痴(ぐち)」、そして「瞋恚」があります。また、この三つは「三毒」と呼ばれています。
 仏教では瞋恚の根底には、無限なる貪欲が存在している、と教えます。欲望が満たされるといい気分になりますが、満たされないと、消極的な場合には愚痴になり、積極的な場合は瞋恚になって表れます。
 企業犯罪、経済事件を犯した経営者等を見ると、多くの場合、まさに「貪欲」に取り憑かれた結果、としかいいようがありません。以前、ある有名企業オーナーの家訓を見て、驚かされました。そこには、何よりも自分のこと、自分の家だけを尊重したことしか書かれていなかったのですから。しかも、その家訓の根幹がそっくり、会社の社訓にさえなっていました。
 欲望が満たされていい気分になっている状態が、六道の「天上界」です。その天上界でも最高の場所を「有頂」といいます。己の貪欲のみ追求し、「有頂天」を謳歌し続けたその企業オーナーは、まさにまっ逆さま、とらわれの身となりました。
 欲望を自分でコントロールできないと、相手のみならず、自分も毒してしまうという、まことに愚かな結果を招いてしまうのです。
 道を誤らんとしている者を、仁王様のように、時には厳しく叱正することも必要です。しかし、自分が満たされるだけでいい、という振る舞い、その狂乱ぶりを見ると、怒りといった理非知らずな行動の根底にある貪欲とは、いかにも恐ろしいものだなと感じます。

〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕