「女性」と「仏教」                北 貢一


  男性と確然たる差があるのか

 今回は「女性と仏教」についてお話しいたします。いままであまり意識して「女性」を取り上げてきませんでしたね。
 女性の出家修行者を「比丘尼〔びくに〕」、女性出家者の集団は「比丘尼僧伽〔びくにさんが〕」といいます。
 男性出家者集団「比丘僧伽〔びくさんが〕」は、お釈迦様が悟りを開かれて(成道〔じょうどう〕)から、そんなに長い時間はかからずにつくられました。ところが女性出家者集団「比丘尼僧伽」はお釈迦様の成道から、およそ二十年後にできました。  お釈迦様が成道されて少なくとも十五年はたったであろう頃、お釈迦様の養母マハーパジャパティー(漢訳されると摩訶波闍波提〔まかはじゃはだい〕)、かつての妃ヤソーダラー(耶輸陀羅〔やしゅだら〕)、それから親類縁者、女性たち数十名が出家を許したまえとお釈迦様のところに行きました。けれどもお釈迦様はお許しにならなかったわけです。
 そこでアーナンダ(阿難陀〔あなんだ〕)がお釈迦様に尋ねました。「女性は出家して修行しても悟りを開けないのか。男性と確然たる差があるのか。特に摩訶波闍波提様は、お師匠様、あなたをお育 てになった方。その人が弟子にしてくれといって来ているのになぜ許さないんですか」といって、とにかくくってかかるわけです。これが師匠に向かって、弟子のいう言葉かと思うほど、きつい言葉な んですね。アーナンダの質問にお釈迦様もこれ以上理由がないということになって許すわけです。これが「比丘尼僧伽」の起こりのわけです。

  お釈迦様とハーリ−ティー

 ほとんどの仏教経典は中国で漢訳されてから日本へ入ってきました。長い間、日本のお坊さんや仏 教研究家は漢訳経典で勉強してきました。ところが明治の中頃から大正初期にかけて原典研究がなさ れました。原典はパーリという言葉や、サンスクリット(梵語)という言葉で書かれています。直接 原典を研究してパーリ語から日本語に訳されたものに『南伝大蔵経〔なんでんだいぞうきょう〕』が あります。これは全部で六十五巻(七十冊。六十五巻のうち五巻には上下があるので)あります。そ の中の二十五巻の中に収められている『長老尼偈経〔ちょうろうにげきょう〕』の中にはハーリ−ティー の偈もあります。
 ハーリ−ティーは、他人の子を食べる女の鬼でした。多くの子どもが犠牲になり、親たちは悲しく て悔しくて、でも自分たちの力だけでは防ぐことができず、お釈迦様に助けを求めました。ハーリ− ティーには二百人とも五百人ともいわれる子がおり、全員大変かわいがっていました。お釈迦様は何 をなさったかといいますと、その子どものうちピンガラという子どもを密かに隠しました。
 ピンガラがいないと気づいたハーリ−ティーは、必死に駆けずり回って探しましたが見つけられま せん。そこでお釈迦様のところに行ってピンガラを見かけなかったか、一緒に探していただけないか と頼みました。
 お釈迦様「お前はたくさん子がいるから、一人や二人くらいいなくてもいいのではないか」  ハーリ−ティー「いいやそんなわけにはいきません。私の子はみんなかわいいです。だからぜひ一 緒に探してください」
 お釈迦様「そうか、そんなにわが子はかわいいか。どんなにたくさん子がいてもかわいいことに変 わりはないだろう。そのかわいい子を、ある鬼に食べられてしまったらどんなに悲しいだろうか」  と、懇々と諭しました。ハーリ−ティーは心から詫び、その様子を見たお釈迦様はピンガラを返し ました。
 その後ハーリ−ティーはお弟子にしてもらい、一生懸命修行して悟りを開いて、いまでは日本では 鬼子母神として子どもを守る神として崇められています。

  尊いものを持つ人間

 さて、次は『勝鬘経〔しょうまんぎょう〕』というお経の内容にふれていきます。
 原語を正式に訳すと『勝鬘師子吼一乗大方便方広経〔しょうまんししくいちじょうだいほうべんほ うこうきょう〕』といいます。勝鬘はこのお経に出てくる主人公で女性です。「師子吼」とはお釈迦様 が説法するときに使う言葉ですから、女性の弟子に師子吼と使っているのはよっぽどのことなのです。 勝鬘が師子吼して、一乗の教えをあらゆる手段をもってすべての人々に広く説いた経典という意味で す。
 内容は大きく四つに分けられます。
 まず「十大受〔じゅうだいじゅ〕」。これは十戒に似ています。文章をしたためさせていただく準備 のために読み返してみると、「十大受」の七つ目に「布施〔ふせ〕」が入っていることに改めて気づき ました。新たな発見があるものですね。「布施」は、仏教で大変大事な教えです。
 次は「三大願〔さんだいがん〕」。これは、
  一、お弟子にしていただいて御仏が身につけた悟りを得たい
  二、悟りを人に分けてさしあげたい
  三、御仏の正法が絶えないように若い人に語り継ぎたい
 という願いです。特に三番目を令法久住〔りょうほうくじゅう〕といいます。
 それから「摂受正法〔しょうじゅしゅぼう〕」。正法とは、それを得るためには普通の人ができない ようなことをしなければいけないのではなく、自然に入ってくるものということです。素直な気持で いると素直に入ってくる。これを強調してお説きになっています。
 最後は「如来蔵〔にょらいぞう〕」。「如来」は真如(この世界の普遍的な真理)から来られた方と いう意味で、原語ではタターガタといいます。「蔵」はお母さんのお腹の中または母胎に守られてい る胎児という意味で、原語ではガルバといいます。直訳すると、私たちは如来の胎内に存在している。 と同時に、私自身を如来とするならば、私の血や肉の中に如来の本質が存在しているということなの です。
 如来蔵が発展すると、「一切衆生、悉有仏性〔いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう〕」となりま す。生きとし生ける一切のものは仏と同じ性質を持っている、如来の性質を持っているということに なります。
 しかし残念ながらその自覚のない人が多い。せっかく尊いものをお持ちなのに。そこに仏教でいう 人間の尊厳があるというのに。
 己〔おのれ〕の、または他の存在の尊厳を知らず悟れずして、憎しみ合ったり殺し合ったりの世の 中が展開している。如来のお腹の中でそのようなことが起きていると思うと、残念だと心から思うの です。

〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕