草の心(芯)を持って生きる               北 貢一


  縁ある人を大事にする

 四月八日は、仏教徒にとっては「花祭り」というお祭りです。お釈迦様がお生まれになったことを記念してお祝いするという日。当日、お寺に行きますと、大きな白い象に山車(だし)が出て、そして花御堂(はなみどう)というお堂を飾ってそこに誕生仏というんでしょうか、お釈迦様が右手で天を指さし、左手で地を指さしている像があります。仏教読みで「天上天下、唯我独尊(てんじょうてんげ、ゆいがどくそん)」といいます。
 唯我独尊だけを見ますと、「ただ我一人尊し」ですから、あまりにも独りよがりという感じがします。お釈迦様以外は全部尊くないということになってしまいますから。
 そんなことをお釈迦様がおっしゃるわけはなくて、この「我」というところに誰を入れてもいいわけです。皆様方独り独りがこの「我」の中にご自分をお入れになって、一向に差し支えないということ。つまり、独り独りの人間がみんな尊いんだということ、これが仏教の大原則ですね。仏教は自分の好き嫌いで人を選ぶのではなく、縁ある人を大事にしていく。そして、その輪を広げていこうという考え方です。

    降誕会

 釈尊の誕生を「降誕(こうたん)」といいます。そして、この降誕にちなんで、会衆(えしゅう)が集まって、お釈迦様のご誕生をお祝いするということで会(え)という、“かい”じゃなく降誕会(こうたんえ)と申します。普通、誕生とか生誕といわれますけれど、お釈迦様の場合は、降誕というんですね。
 なぜ降誕かなと思いましたら、これは伝説なんでしょうけれども、お釈迦様のお母さんはマーヤーといいます。仏教はときどき現在は使わない変な読み方をしますから、そのまま「マーヤー夫人(ふじん)」と呼べばよさそうなものですけれども、「夫人(ぶにん)」と呼んでいるんです。そして漢字をあてまして「摩耶夫人(マーヤーぶにん)」と。
 摩耶夫人の夫はシャカ国の王様で「スッドーダナ王」、漢訳では浄飯王(じょうぼんのう)と呼びます。このお二人がご結婚されて、ある時、摩耶夫人がうたた寝をしている時に、夢を見たそうです。六本の牙を持った白い象、六牙の白象(ろくげのびゃくぞう)が天界から降りてきて、そして摩耶夫人が横たわって右脇を上にして寝ていると、ふっとその白象が入ってきたと。「もしかしたら妊娠したかもしれない」となります。後にはっきりと身ごもったということがわかったわけです。
 で、このお話は仏教的な考え方、受け止め方からしますと、お釈迦様は摩耶夫人の右脇から生まれてきたということになります。じゃあ、その天から降りてきた白象との関係はどうなのかというと、天界ですでにお釈迦様が白象という化身であった、お釈迦様という人間の体が象に変わっていた、そしてそっと摩耶夫人の体内に、天界から降りてきて入って生まれてきたといわれます。そこから「降誕会」となったようでございます。
 いま申し上げたようにお父上が浄飯王、母上は摩耶夫人というのは歴史的事実です。シャカ国の東隣、どちらもいまでいうネパール王国ですが、ネパールの南部の西側がシャカ国、その東に隣り合わせであった国がコーリヤ国、コーリーという場合もございます。ここの王女様が摩耶夫人でした。摩耶夫人はコーリヤ国からシャカ国にお嫁に来ましたが、産み月になりまして、摩耶夫人は生まれ故郷であるコーリヤ国に行き、出産することになります。
 ちょうどこのシャカ国とコーリヤ国の国境にあるのが、ルンビニーというところです。このルンビニーというところでお釈迦様は生まれたということです。白い建物がございまして、ここに煙突みたいなものが立っておりますが、手前にちょうど正方形の池がありまして、そこで産湯(うぶゆ)を使ったということです。産湯にもいろんなお話がございまして、ちょうどお釈迦様がお生まれになる直前に、天から甘露(かんろ)という雨が降ってきまして、これを甘露水といいますが、この水を産湯に使ったといわれます。
 インドではこの甘露水は「不老長寿」の妙薬といわれているそうです。つまり、天も祝福したということです。

  なぜ「花」と「香」か

 花祭りでは誕生仏に甘茶をかけます。甘露水の代わりですね。誕生仏は普通は右指は天を指さし、左指は地を指さすというのが常識というか、通説です。
 しかし、実際には左手が天、右指が地をさす逆のものがありまして、目にした私は「これは間違ってできたものでは」といいますと、「いや北さん、それはわかりません」とにかく仏教というのは一方に固定してはいけないという教えだから、両方あっても不思議はないということをいわれました。
 日本で花祭りといいますと、四月に入ってからのことですから、花イコール桜というイメージが強いですね。誕生仏のまわりには、桜だけではなくて色とりどりの花が飾られます。ですから、花なら何でもいいということだと思います。
 私たちが死ぬと仏になったといわれます。この仏への供養の第一はまず花だそうです。そして、もう一つはお香だそうです。この香を食するという「香食(こうじき)」というものも仏典に載っていますけれど、普通私たちがこの世に対してあの世という「あの世」で食べるものはこの「香」だそうです。ということで、このお花と香はつきものとされています。
 花ということになりますと植物ということですけれども、植物と私たち動物との極端な違いはどこにあるかというと、花のあるかないかだそうです。私たち人間や、他の動物は植物のような花をどこかに咲かせるというようなことはございません。植物の中でも花を咲かせない植物があるということですが、学者はこれを「隠花植物(いんかしょくぶつ)」といい、つまり花は咲いているが隠れていて見えないとしています。そういう意味からすると、花を咲かせない植物はないということが植物学者のおっしゃるところのようです。
 では、なぜ仏教では植物を大事にするかというと、花には必ず大事なものがある。それは、草の心だという教えがあります。草の心と書くと「芯(しん)」です。つまり私たち人間も人間としての芯、それを持たないと一喜一憂、何かあると右往左往して自分を見失いがちです。ですから、しっかりと芯を持っておく。こういう意味合いもこの花祭りの花には含まれていると教えられております。
 草の心、とはどういった意味か。草の化身が花なので、事典で「花」を調べてみますと、「高等植物の生殖器官の総称」とありました。つまり、植物はみんな裸でいるということなんですね。

〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕