福子(福祉)思想から生まれた「福助」                北 貢一


  医療との深い関わり

 仏教は初期の頃、医療と非常に深い関わりを持っておりました。聖徳太子は四天王寺というお寺を大阪に建立されましたが、その中に、四院(しいん)という四つの建物がございました。
 一つ目は施薬院(せやくいん)と申しまして、読んで字のごとく薬を開発し、施したところです。

 二つ目は療養院(りょうよういん)ないしは療病院(りょうびょういん)ですが、病気にかかった時、そこで静養する施設です。 
 三つ目は悲田院(ひでんいん)。生活に困っている人、身寄りのない人のための施設です。
 最後に敬田院(けいでんいん)というのがございますが、敬うというのは尊敬すべき仏法僧という意味です。
 仏教では以前申しましたように「仏(釈尊)」と、仏の説かれた教えである「法」、そして、「仏」と「法」を同じくする仲間という意味の「僧」という三つの存在がございます。この三つを三宝(さんぼう)と読んで「仏法僧」としています。敬田院は、僧侶が居住しており、四天王寺の中心的建物でした。その敬田院を中心として施薬院、療養(病)院、悲田院という三つの建物が四天王寺の中に建てられていたということです。これはすべて、仏教徒の社会的実践の基本とされております。根底にあるのは福田(ふくでん)思想です。

  福田思想と福子思想

 福田は、サンスクリット語でpunya k etra「プンヤ・クシェートラ」といいます。これは「善き行為の種を蒔いて功徳の収穫を得る田地」という意味で、仏教の社会福祉の理念を語る言葉とされております。
 また、悟りのことを「ボーディ」と呼んでおりまして、それを漢訳した時に菩提(ぼだい)となりましたが、その菩提の功徳を得る基となるものを、この「プンヤ・クシェートラ」としています。はじめはお釈迦様ご自身を弟子たち、信者たちが福田と仰ぎ、帰依して供養の対象としました。本来仏教で供養といいますと「感謝を表す行い」というふうに理解されております。
 ですから、供養というものはどなたに対してもできる行為です。日本人は先祖崇拝というんでしょうか、先祖に対する感謝を表す行いを先祖供養といいます。しかし、供養はなにも先祖に限りません。先祖は、自分から見て過去になりますが、先祖供養もさることながら、大事なのは子孫供養ということではないかと思います。将来の孫・子のために善き行為をすべきだと私は思います。
 日本には福田思想に対して、福子(ふくし)思想があります。いまでいう福祉思想の根底に福子思想があるのではないかと思います。福子とは一種の奇形のことで、この思想では異形(いぎょう)といいます。
 私たちと違った形をした人間(子ども)が、私たちが住んでいる国とは違った国、異界から「福」をもたらすためにやってきたという意味があるそうです。ですから、奇形児のような子どもさんが生まれると、村や集落をあげてそういう子の誕生を祝福したそうです。
 生まれた子が男の子の場合、本名はどうあれその村、集落の人たちは「福助ちゃん」と呼んでかわいがったそうです。女子の場合には「お福ちゃん」と呼んで、私たちに幸せをもたらすためにやってきてくれたと、大事に育てたといいます。日本にはおそらく奈良、平安時代からあった思想だと思います。
 その典型というか、頭でっかちで、背はあまり高くなく、そして少し小太りの人間を、登録商標にしたのが福助です。福助は「足袋(たび)を通して、それに関わる人たちが少しでも幸福であってほしい」という願いのもとでご商売をしていらっしゃると想像いたします。ところが、いつの頃からか、日本では恥ずかしいといってこの子たちを隠すようになりました。

  分断された仏教と医療

 古代インドの帝王学とでもいうべきものに五明(ごみょう)があります。お釈迦様は、当然、五明を学んだはずです。
 五明の中にはまず、因明(いんみょう)があります。これは論理学に相当する学問とされております。それから内明(ないみょう)。これは、形而上学の強い学問であったようです。そういうものに基づいて教理が次第に整えられてまいりました。それから声明(しょうみょう)というのがございます。これは言語学とか、仏典学あるいは仏法学とかいわれるような内容の学問とされております。次は工巧明(くぎょうみょう)。内容は工芸、建築、技術、算歴、数学、天文。いまでいうと工業技術といってもいいのでしょうか。そして最後に医方明(いほうみょう)といい、医学、薬学、看護法等、医療に関するものが全部含まれておりました。
 これらをお釈迦様は身に着けられ、後に仏陀と仰がれました。釈迦牟尼世尊の一番上の「釈」と一番下の「尊」の字二つだけ使って、略称を「釈尊」といいます。
 また、耆婆(ぎば)という方は、サンスクリット語でJ vaka Kom rabhacca 「ジーバカ・コーマーラバッチャ」と読みますけれど、非常に医学、医療に巧みな方でした。古代医学を代表しているものにアーユルベーダがございますが、それが日本にも伝えられました。聖徳太子の時代には、非常に優れた医療技術・医学が日本に存在したようです。
 ところが、江戸時代に仏教と医療とは分断されてしまいました。
 なぜ日本の仏教が葬式・法事仏教になってしまったのか。徳川幕府が民衆支配のために宗教を用いたからです。神道、仏教、儒教が利用されました。
 神道では民衆を神社の氏子として、そして氏子の神を氏神として、地縁的に結びつけました。
 仏教では、寺、寺院と檀家という形で、地縁的にも血縁的にも民衆を拘束しました。さらに儒教によって「家」という形の中で民衆を縛りつけました。
 儒教は人の道、道徳的なものです。特に儒教の中でも非常に封建制の強い朱子学で、親と子、とりわけ母と子という血縁で民衆を結びつけたのです。
 つまり、宗教は民衆支配の道具になってしまいました。葬式・法事は仏教、冠婚のたぐいを神道としました。
 特に仏教には、いまでいう役所の戸籍係のようなことも担わせました。子どもが生まれたという届け出、元服したという届け出、結婚したという届け出、どこかに旅行に行くという届け出、この一切の届け出を仏教に担わせたのです。
 将軍直轄の寺社奉行があったように、寺社を大衆支配のために重んじたのです。政治と宗教が結びつくといいことはありません。
〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕