生き方としての「お盆」               北 貢一


 お盆の法要は先祖の冥福を祈る大事な生活行事の一つです。地方によっては「盆会(ぼんえ)」「魂祭(たままつ)り」「歓喜会(かんぎえ)」等と様々に呼ばれていますが、正しくは「盂蘭盆(うらぼん)」といいます。梵語の「ウランバナ」に由来しております。
 ウランバナは「逆さまに吊るされる」ことを意味しています。難しい言葉でいい換えると、「倒懸(とうけん)」ということですが、この「倒懸」は、地獄で受ける苦しみの一つとされています。なぜ、こうした大変な肉体的苦痛と祖先供養が通じているのでしょうか。
 その謎を解くのが竺法護(じくほうご)という人が訳したとされます『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という仏書です。その中にある「目連救母説話(もくれんくもせつわ)」というお話が、盂蘭盆の典拠になっているとされています。少し長くなりますが、この不思議なお話を紹介しましょう。

  餓鬼界に落ちた青提女

 目連尊者(もくれんそんじゃ)というお釈迦さまの高弟のお話をいたします。「神通第一」と呼ばれるほど、神通力に長けていました。
 ある日、目連は、亡くなった母・青提女(しょうだいにょ)はあの世でいま頃どうしているか、楽な暮らしをしているだろうかと、持ち前の神通力で天上界を覗いて見ることにしました。しかし、いくら探しても懐かしい亡母は見あたりません。
 こんなはずはないと、目連は驚きながら下の世界へとだんだんに目を下ろしていきました。するとついに「餓鬼界(がきかい)」というところで母の姿を見つけます。餓鬼界とは、地獄の一つ。前世で嫉妬深く、物惜しみや欲望を繰り返した者が落ちる世界です。そこで母は痩せ細り、様々な責めに苦しんでおりました。
 しかし、青提女は現世で罪を犯したわけではありません。息子を心から愛し、家庭も裕福で、理想のよき母でした。そうした青提女がどうして餓鬼界に落ちなければならなかったのでしょうか。それは、理不尽なことかもしれませんが、目連を愛しすぎたがゆえでした。あまりにわが子だけをかわいがり、「慳貪(けんどん)」という罪を犯したのです。
 慳貪というのは、ケチで物惜しみが強い心を指し、仏教では救いがたい人間の悪心とされています。わが子の出世だけを考え、他人への施しを忘れ、青提女は人としての道理を見失ってしまい、そのため、餓鬼界に落ちたのです。
 さて、目連は哀れな恋しい母のために持ち前の神通力を発揮し、食べ物を差し出します。青提女は、むさぼるように口に運ぼうとしますが、食べ物は、たちまち燃え盛る炎と化し、とても口に入れることができません。目連はせめてお水だけでも、と差し出しますが、これもまた口につけようとすると炎となり、神通第一といわれたさすがの目連も、どうにもなりませんでした。

  「因果応報」と「回向」

 もはや目連は、お釈迦様に一部始終を話し、なんとか母を救ってほしいと懇願するよりなかったのでした。
 目連の必死の話を静かに聞き終えたお釈迦様は、「過去を取り返すことはできない。だが、青提女ができなかったことを、お前が代わりにすることはできるだろう。雨期もあがる七月十五日は、夏の修行が一段落ついた僧侶たちも町に出てくる。その日に青提女ができなかった善行をお前が行なうがよい」と示しました。そこで目連が七月十五日、僧たちに食べ物等を広く施したところ、その功徳で青提女は餓鬼界の苦悩から救われたのです−−−。
 仏教の「因果応報」の教えでは、この世でよい行いをした者は、来世で善果の報いを得、悪い行いをした者は、来世で悪果を受けます。つまり、どんな罪であろうと、現世で悪をなせば、来世で救われる道がないということでもあります。
 しかし、ここに一つだけ救いのチャンスがあります。それが「回向(えこう)」といわれるものです。
 現世で自分が積んだ善行は、本来、来世で自分が受けるべき果報になります。しかし、その果報を、あの世で苦しんでいる人のためにふり向けてあげる、それが回向です。そして、いうまでもなく回向は、いま生きている私たちにしかできないことです。
 その回向をするのに、なぜ、お釈迦様は七月十五日という日にちを指定されたのでしょうか。
 お釈迦様が話された僧たちの「夏の修行」とは、「安居(あんご)」といわれるものです。インドでは雨期の三カ月間、普段は各地を訪ね歩く修行者たちも外出を避け、一つの場所に定住し、修行に専念します。それが安居です。そして、長い安居の最終日、それこそが七月十五日で、この日、安居の中で最も重要な修行「自恣(じし)」が行なわれます。 自恣とは、修行者全員が集まり、修行中のことを互いに反省する、いわば総懺悔を行う修行のことです。自分は正しい修行をしているのか、足りないところはなかったかと僧たちが内省し、また次の新たな修行の旅へと出かける、そうした重要なけじめの儀式ともいえるでしょう。

  自分を内省するきっかけに

 盂蘭盆の本来の意味は梵語のウランバナ、「倒懸」であることは冒頭に申しました。逆さまに吊るされるとは、つまり見るもの、聞くもの、考えること、すべて逆さまということでもあります。もっといえば、自分では善だと思っていても、実はそれが悪だったということです。
 ここでもう一度、なぜ現世では理想の母といわれた青提女が、餓鬼界に落ちたのかを思い出してください。青提女が餓鬼界に落ちたのは、自分本位な「慳貪の罪」を犯したためです。たとえ自分ではいいことだと思っていることでも、自信過剰や自己中心的なエゴに基づいたものであれば、それらは善行といえるでしょうか。まさに青提女は「倒懸」に陥りやすい人間の存在を象徴しているのではないでしょうか。
 倒懸に陥った青提女のために回向を行うことを典拠とする盂蘭盆には、いま自分は「倒懸」な生き方をしていないかについて振り返ろう、現世という修行の場を生きている私たちも、僧たちのように自恣をしよう、というメッセージが込められているように思います。
 先祖供養の日である盂蘭盆の来歴を考える時、何があってもいい気にならず、自らを省みて内省する生き方を心がけたいものだと改めて感じさせてくれるものです。

〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕