「お彼岸」にみる死生観                北 貢一


 今年もそろそろ秋のお彼岸を迎えます。お彼岸の正式名称は「彼岸会(ひがんえ)」。周知の通り、彼岸会の法要は、春分の日、秋分の日という昼夜の時間が同じになる、季節の境目に行われる祖先供養の仏事ですが、これは日本独特のもの。彼岸会の法要に当たるような仏事はインドや中国には見当たりません。なぜ彼岸会が日本で行われるようになったのでしょうか。そしてそこにはどんな意味が込められているのでしょうか。

  「彼岸」と「此岸」

 まず、彼岸という言葉の意味を見てみましょう。
 辞書によれば、彼岸は「生死の海を渡って到達する理想・悟りの地」、つまりあの世を意味し、梵語で「パーラ」といいます。
 日本では彼岸、つまりあの世のことは「黄泉(よみ)」「冥界(めいかい)」とも呼びます。この冥界の「冥」という字は、訓読みで「くら」い。暗闇の「闇(やみ)」、これが変化して「よみ」となり、黄色い泉が湧いているとして漢字を当てて「黄泉」となりました。ちなみに「到彼岸(とうひがん)」という、迷いの多いこの世の中から、悟りの彼岸に至るプロセス(道筋)を示す「波羅蜜多(ぱーらみたー)」という言葉もあります。
 さて、「彼岸」に対する言葉が「此岸(しがん)」です。此岸は梵語で「オーラ」といい、世俗の世界、つまりこの世を意味します。ある仏教では、この彼岸と此岸の間は「十万億土」という、とてつもない距離があるとされています。
 十万億土とは、一体どれほどの距離なのでしょうか。数学を研究している、ある大学の教授が計算したところ、十万億土は十京光年にもなるそうです。ご存じのように一光年は、光が一年間かけて進む距離。一光年は九兆四六〇八億kmになります。それをさらに十京倍するというのですから、此岸から彼岸までの距離というのはどれくらい果てしないのか、文字通り、天文学的といえます。
 ともかく、この世とあの世はとてつもなく離れた場所にあるという認識であり、此岸と彼岸はちょっとやそっとでは行ったり来たりすることは不可能な、隔絶された世界ということなのです。

  「あの世」との距離感

 ところが、日本の場合はどうも、この世とあの世は案外近い、と考えられているようです。
 春と秋の彼岸のほかにお盆といった祖先の霊を迎える行事があります。
 私が子供の頃は、年末にご先祖様をお迎えし、一緒にお正月を過ごすという習慣も残っていました。つまり、年に三回あるいは四回も、十万億土の彼方にあるというあの世から、ご先祖様をお迎えするのです。
 あの世はとてつもなく遠い距離にあるのではなく、もっと身近にあるものだという考えでなければ、一年にそんなに頻繁に行ったり来たりできるものではないでしょう。いつもすぐ近くで、この世の自分たちのことをご先祖様は見守ってくれている、という考えが強いためなのではないでしょうか。
 死ぬと魂は肉体を離れてあの世に行くけれども、一年のうちに何回かは帰ってきて、またあの世に戻っていく、いわばこの世とあの世は往来自由だという日本人独特の考えは、ほかにも見られます。

 私が小さい頃、よく母や叔母に「この子はおとっつぁんそっくりね」なんていわれていました。「おじいさんの生き写し」「ばあちゃんの生まれ変わりのようだ」というたとえは、いまもよく聞かれることですね。
 本当に生まれ変わりが存在するのかは、確かめようもありません。しかし、この子は生まれ変わりなのかもしれないと考えると、より愛情を込めて大事に育てよう、授かった命を大切にしようという気持ちが生まれるものです。
 また昔のお年寄りには、死に対して恐怖ではなく、ある種の憧憬さえありました。一足先に亡くなった人たちとの再会の楽しみがそれです。死ぬことは嫌ではない。生きていれば、死ぬ時も必ず来るもの。しかし、死ねばあの世で会いたい人たちに会えるじゃないか、そうした考えもいいものだと思います。
 亡くなれば、あの世で先立った家族や友人に再会できる。そして、生まれ変わって、また現世の人とも再会できるという考えです。つまり、あの世とこの世は十万億土も離れているのかもしれませんが、存在としては近いもの、死は絶対的な到達点ではないとの受け止め方がされてきたのです。もし、今の世の中にもそうした考えがまだ残っているとするならば、死ぬことは怖いことではなく、むしろ死を前にしても、安らかな気持ちになれるのではないでしょうか。

  「生と死」は隣同士

 お盆の法要と、お彼岸の法要。その目的の一つは親類、縁者が集まり、日頃の疎遠を温め合うことです。祖霊があって生きている人と人との輪がある。その輪を大切にし、有意義に生活することが大切だという価値観を再認識させてくれる仏教行事です。私は形式としての法要以上に、いまの自分を見つめて考え直す、そうした精神的な面こそ大事なのではないかと思います。
 たとえば、月に一回、年に一回、死んだおじいちゃん、おばあちゃん、お世話になった人の霊が自分を見守ってくれている、と思えば、嘘をついたり、ごまかしはできません。常に正直で真面目に生きなくてはと、自分自身で意識しますね。それが何より大事なことです。
 ところで仏教では「偉大な輝くもの」として太陽のことを「大日(だいにち)」といいます。生物は太陽からの計り知れない恩恵を受け、いままで生き永らえてきました。太陽が燃え、放出されたエネルギーが宇宙に散らばり、その一部が地球に届く。それによって、地球の気候にリズムが生まれた。そのお陰で、日本では、昼夜の時間が同じという季節の境目が現れた、と考えるとまことに不思議な因縁を感じます。
 闇に包まれる夜を「死」、光が注ぐ昼を「生」と置き換えてみましょう。すると、夜と昼、生と死が渾然一体となる特別な日、「お彼岸」になぜ日本人だけが祖先を供養するのか、その理由がわかる気がします。
 生と死は別のものではない、隣同士の関係にあるという、昔からの日本人の「死生観」。そうした生きる知恵と死ぬ知恵を私たちも大切にしていきたいものです。

〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕