「布施」のこころ                     北 貢一


 生きていく中で、欲望ほど恐ろしいものはありません。金や権力の欲望にとりつかれ、人生を狂わせた人たちの姿を連日ニュース等で目にします。仏教では、欲望を戒めるために、時に「布施」の行を教えます。

  「公慶上人と乞食」

「公慶上人(こうけいしょうにん)と乞食」というお話があります。いまから約四百五十年前、戦国時代の動乱の頃です。奈良にある東大寺大仏殿が燃えてしまい、銅でつくられた大仏様は残りましたが、長い間、雨ざらしになっていました。それを見た公慶というお坊さんが、なんとかお堂を再建したいと行動を起こしました。仏教ではお金の布施を進めることを「勧進(かんじん)」といいます。大仏殿再建のために公慶は勧進を始めました。近江辺りを勧進して歩いていた時、一人の乞食が店の軒下に佇んでは乞うていました。見るとまだ若く、働こうと思えば働ける立派な体を持っています。しかし、なぜ、おもらいをしなければならないのか。公慶はその姿を見て「いまこの乞食は布施の功徳を積まないと、未来永劫(みらいえいごう)その貧しい人生から抜け出すことができない」と思いました。
 乞食がある一軒の家から金一厘のおもらいにありついた時、公慶は一生懸命「お布施をなさい」と乞食に説きました。しかし、乞食は頑として聞き入れません。ついには「えい、めんどくさい」とばかりに、乞食はその一厘を投げ出しました。すると水を引いていた田んぼの中に落ちてしまった。乞食はもう公慶に追われないですんだのですが、手元には何もなくなったので、空きっ腹を抱えてうろうろしていました。
 だいぶ時間がたってから、何か水の音がするので、乞食が田んぼの中を見ると、自分にしつこくお布施を勧めたあのお坊さんがいる。「坊さん、何をしてるんだ」。腰をかがめたまま公慶は、こう話しました。「せっかくお布施をしてくれたのに、私の粗相で田の中に落としてしまった。それを見つけ出さない限りは、大仏様にも申し訳ないし、その布施の功徳を積んでくれた人にも申し訳ない。見つかるまで私はこの場を立ち去ることができない」。その言葉を聞いた乞食ははっとし、公慶と一緒になって探し、空が白々と明けかけた頃、どちらともなく一厘をつまみあげました。そして公慶は勧進帳の一行に「金一厘なり、乞食一人」としたためた。こういう有名な話があります。

  「功徳とお布施」

 あまり無理強いをすることはよくないと思いますが、時と場合によっては、無理強いしてでも功徳を積ませてあげることも必要ということでしょうか。心を鬼にして、その乞食に功徳を積ませた実話だそうです。
 布施にはいろいろありまして、大きく分けると四つの種類があります。
 一つ目は衣食や金銭等を施す「財施(ざいせ)」。二つ目は、たとえば私が皆様にお話しさせていただいているように、仏法を説いてお聞かせする「法施(ほうせ)」。三つ目は「畏れ(恐れ)を取り除いてあげる」という「無畏施(むいせ)」。四つ目が、己の体を使う「身施(しんせ)」。私がいまこう文章をしたためさせていただいていることは、「財施」も「法施」も「身施」もしていることになります。「無畏施」まではわかりませんが、いろいろなお布施をさせていただいているんだなと、本当にありがたいとしみじみ思います。
 様々な理由があって金銭・物資のお布施をしたくてもできない人もいるでしょう。しかし、お金や物を持っていない人もお布施ができるのです。仏教ではそれを「無財の七施」といいます。
 一番目は「眼施(げんせ)」。穏やかな眼をして人の眼を見るだけで、相手を安心させる。二番目は「和顔悦色施(わげんえつしきせ)」。色というのは物質的なもので、この場合は和やかな顔でいることを指します。三番目に「言辞施(ごんじせ)」。傷ついた心まで和ませるような言葉の布施ですね。四番目は前述しましたが「身施」。それから五番目の「心施(しんせ)」。いくら形を整えてもそこに心が伴っていないと、お布施にならないという意味です。六番目は「床座施(しょうざせ)」。椅子、あるいは電車といった乗り物の座席に相当し、譲ることです。最後が「房舎施(ぼうしゃせ)」。いわゆる住むところです。たとえば急に雨が降ってきて、ちょっと家の軒下で雨宿り。すると、その家の人が察し「そこでは雨がかかるでしょうから中でお休みになったらいかがでしょうか? どうぞ」等といって、お茶が出てきたりする。そういうような心づかい。これもお布施なのです。

  「巡り巡るお布施のこころ」

 お布施の根本的な心構えは「三輪空寂(さんりんくうじゃく)」といいます。施者(せしゃ)と施物(せもつ)と受者(じゅしゃ)を三つの輪として「三輪」と呼びます。そして何のとらわれもなく、寂々としている状態が「空寂」です。
 私が「施者」とすると、皆様は「受者」であり、そして「施物」は先ほどの「法施」ということになりますね。この「三輪」というものは固定しておりません。最初の「公慶と乞食」のお話に戻れば、公慶は「施者」で法施をお布施し、乞食は「受者」。しかし次の瞬間には、公慶の勧めがありましたが乞食は「施者」で金一厘をお布施している。巡り巡ってぐるぐる回っているということなのです。そして「空寂」ですから、人から感謝されればそれは受けるけれども、いつまでもそれにとらわれない。また、受けた方も「あの人にお世話になった」といつまでもいうのは、よくないのです。私がこれを初めて学んだ時に、「仏教というのは、感謝というのを教えない教えかな」と思いました。しかし「三輪空寂」という考えから申しますと、「施者」も「施物」も「受者」もこだわらない。誰もが「施者」になり、「受者」になるからです。
 お布施を入れる箱には「喜捨箱(きしゃばこ)」と書いてあります。「喜捨」というのは、喜んで捨てると書きます。喜捨箱に入れた手を離したその瞬間に忘れましょうということです。「お布施した、お布施した」なんていいません。お布施をした次の瞬間、その心を解き放つのです。
 欲望にはいろいろ種類がありますが、一番執着しやすいのがお金ではないでしょうか。この一番執着しやすいお金から心が離れたならば、他のものに対する執着はほとんど離れていくでしょう。「執着心を離れさせていただく金」、こういう考えが大事ですね。
〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕