「林住期」の生き方                    北 貢一


 安土桃山時代の戦国武将・織田信長は、舞楽「敦盛(あつもり)」を好んで舞ったといわれます。唄いだしは有名で、「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり」人間の五十年は儚(はかな)いという意味ですね。

  自分を見つめる

 昔、日本人の平均寿命は約五十歳でしたが、二〇〇七年九月の推計では男性の平均寿命は七十九・〇歳、女性は八十五・八一歳になりました。さらに百歳以上の方は三万二千二百九十五人(男性四千六百十三人、女性二万七千六百八十二人)です。現在の平均寿命は百歳に迫るくらいです。ちなみに私は一九三一年生まれで七十六歳。人口学的に言えば「後期高齢者」と呼びます。自分では「いつの間に……」とびっくりです。
 今回は、いかに生き、いかに死ぬか、仏教で説かれる死生観をテーマにお話ししてまいります。寿命が長くなった分、改めて考えなくてはならないテーマではないでしょうか。
 古代インドの法典『マヌ法典』(紀元前二〇〇年から紀元後二〇〇年の間に成立と推定)では、人生を四つに分ける「四住期(しじゅうき)」という考えが明記されております。学生期(がくしょうき)、家住期(かじゅうき)、林住期(りんじゅうき)、遊行期(ゆぎょうき)の四つです。それぞれの時期における、男性の義務、婦人の義務、王の義務、訴訟、種々の犯罪とそれに対する罰、結婚に関する規定、贖罪法(しょくざいほう)、身分制度、カーストに関すること等、最後に輪廻について説いております。
 小説家の五木寛之さんは、四住期についての著書を出しておられます。書名は『林住期』(幻冬社刊)とおっしゃいます。以下私の解釈も含め引用いたしました。
 学生期とは青年。心身を鍛え学習し、体験を積む。二十五歳くらい。
 家住期とは壮年。就職し家庭をつくり、子を育てる。五十歳くらい。
 林住期とは初老。五十年の積み重ねに立ち、人生の黄金期を開花。七十五歳くらい。
 遊行期とは老年。諸方を巡り仏道を行じ、少欲知足(しょうよくちそく)を旨として乞食(こつじき)生活に入り、解脱を求める。百歳くらい。
 遊行とは、仏教でも伝道や布教という意味でよく使われております。五木さんは一九三二年生まれ、七十五歳で林住期と遊行期の境目にいらっしゃいます。タイトルでもある林住期について、こう記しています。
「国家や社会制度に貢献するために過ごしてきた家住期は、まさに人生のまっ盛りであり、社会に暮らす者の尊い義務であった。充分に義務を果たし終えた人間は、今度はまさに自己本来の人生に向き合うべきであろう」「林住期とは、本来の自己を生かす自分をみつめる、心の中で求めていた生き方をする。自分のために残された時間(日々)を過ごそう」
 読者の皆様は、林住期と呼ばれる期間に定年退職される方が多いと思われます。職をまっとうなさる定年という節目に、改めてご自分を見つめていただきたいというメッセージが込められているように思います。
 そんなことを思いながら、研究資料をまとめておりましたら、吉田兼好の『徒然草』第百五十五段におもしろいことが書いてございました。
「死は前よりしも来らず。かねて後に迫れり」
 私たちが死を忘れ、それを意識の外に放置して実生活に現(うつつ)を抜かしている時、死は背後から音もなく忍び寄り、ポンと肩を叩いて「時間です」と無愛想に知らせる、というようなことを書いております。
『徒然草』は、仏教的無常観を通して、季節や人生観を描いた随筆です。私たち現代人にとっても、いかに生きるかについてとても参考になります。
 また、良寛という禅僧は、遺言に句をいくつか残しています。その一つをご紹介します。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
 もみじに己(おのれ)を重ね、やがて亡くなるであろう己を静かに見つめる、いかにも禅僧らしい句です。人間、裏も表もあります。もみじのように、よいところも悪いところも全部さらけ出す人生が人間だといっているように思います。

  「人寿一千年」の苦しさ

 現代の多くの日本人は死という存在に対して希薄です。できれば触れたくない話題でしょう。しかし、死は自然な現象です。人は最後に死ねるから幸せなんだと語る方もいらっしゃいます。
 仏典には、神々が住んでいる天界について書かれている箇所があります。天界は三十三界あるといい、その中に「人寿(じんじゅ)一千年」という天界があるといいます。寿命が一千年という世界です。天界とは苦しみのない、競争もなければ働かなくてもいい世界です。十年、二十年、人によっては三十年楽しめるでしょう。しかし、想像してみてください。何にもしない世界が一千年も続く、これは想像以上の苦痛と思うのです。
 ここで不老不死の薬を飲んだ若い娘さんのお話をいたしましょう。
 娘さんは一向に年をとらず、最初は喜んでおりました。しかし、ご両親を看取(みと)り、兄弟を看取り、夫を看取り、そして自分の子どもや孫を看取った後でも、自分一人だけ若いまま……。やがて娘さんは尼になりました。一つの場所にいるのが辛くなり、全国を行脚し、善行を残したという伝説があります。娘さんの苦しみ、その心を察するに余りあるではありませんか。
 人は最後に死ねるから幸せ……なにか考えさせられる言葉でございます。

  「迷い」が生じた時は……

 生きていく上で必ず突き当たるのは「迷う」ということです。仏教では迷うのが一番いけないとされています。ところが私たちは、大事なことになるほど迷ってしまいます。では、迷った場合、どうすればいいのでしょうか。
 実は仏教は、明瞭かつ一見、無責任な選ぶ方法を説いています。
 サイコロを二つ用意し、出た目の合計が奇数ならこれ、偶数ならあれと前もって決めておくのです。つまり賭け事みたいなことで決めるのです。もちろん、博打(ばくち)に応用してお金を賭けるのはいけませんよ。
 私は最初、ずいぶん無責任だと思いました。しかし、よくよく考えてみますと、文句なしに一番いいのです。相手がいる場合はなおさら一番いいです。話し合うにしても、あちらを立てればこちらが立たずの状況になることが多い。サイコロにまかせるというのは人為的な力が働かず、誰もが納得する方法でさっぱりしています。これこそ仏の「智慧」だと思うのです。
 コインの裏か表でもいいし、二人以上の場合はジャンケンの勝ち負けで決めてもいいでしょう。

〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕