「仏の智慧」                         北 貢一


  霊山会

 経典『妙法蓮華経〈みょうほうれんげきょう〉』は二十八品〈ほん〉(品は章という意味、つまり二十八章)によって成り立っております。「二処三会〈にしょさんえ〉」と申しまして、二カ所で三回行われたお釈迦様(仏様)のお説法をまとめられたものです。「会〈え〉」というのは、「会座〈えざ〉」ということで、仏様のお説法を聞く人、つまり「会衆〈えしゅう〉」が集まった場のことです。
 全体は三つに分かれています。最初の一品(序品〈じょほん〉)から十品(法師品〈ほっしほん〉)までは、いわゆる理論の部分が語られています。「現実直視」の姿勢が綴られています。十一品(見宝塔品〈けんぽうとうほん〉)から二十二品(嘱累品〈ぞくるいほん〉)は信仰について語られていますが、理想的信仰観といったもので、「現実直視」による理想の追求が綴られています。
 二十三品(薬王菩薩本事品〈やくおうぼさつほんじほん〉)から二十八品(普賢菩薩勧発品〈ふげんぼさつかんぼっぽん〉)までは、いわゆる実践、理想の現実化が綴られています。
 第一回目の「会座」はインドの王舎城〈おうしゃじょう〉の郊外の「霊鷲山〈りょうじゅせん〉」で行われたとされております。「鷲」という字を省略して、「霊山会〈りょうぜんえ〉」といわれております。「霊山」は「現実の場」を意味しています。
 「霊山会」に対して、二番目の「会座」は「理想の世界」を表します。現実に対して、理想はどうあったらいいのかということで、「虚空会〈こくうえ〉」と呼ばれています。
 そして、「会座」は三番目で再び「霊山」に戻ってまいります。これは「理想の現実化」を意味します。
 現実から出発して、理想を自覚し、それを現実の場でいかに実現していくかということです。第一の「霊山会」は「前霊山会〈さきのりょうぜんえ〉」とされております。そして、三番目の方は「後霊山会〈のちのりょうぜんえ〉」とされています。

  現実直視

 『妙法蓮華経』の第一番の「序品」では、仏様のお説法を聞く心構えが示されており、第二番の「方便品〈ほうべんぽん〉」から本格的に仏様のお説法が展開していきます。「会座」に登場してくる人たちの中心は「比丘〈びく〉」「比丘尼〈びくに〉」でございます。「比丘」というのは、男性の出家修行者で、「比丘尼」は女性の出家修行者です。つまり、在家生活から抜け出して、修行一筋に生活している人たちです。この人たちは、すでに現実の世界の欲望から離れた人たちです。
 現実は欲望が多く、醜い世界です。この「現実の場」を「方便品」では「直視」することが説かれています。醜い世界でも直視することが重要だとされているのです。
 私たちは現実を「けしからん」と思うとつい、「こうしなくちゃ、ああしなくちゃ」と方法論的に現実を変えようとしてしまいます。
 しかし、『妙法蓮華経』はそうすることを「ちょっと待て」といいます。確かに醜い現実はかくのごとくありますが「じゃあ、理想は何なのか?」「お前は何を望んでいるのか?」と展開します。現実に対して、どういう手を打つべきかということは、これまた私たちを困らせる問題です。正義を標榜すればするほどおかしくなってきますから。
 そこで、仏様なら現実をどう捉えるのかと考えます。これが二つ目の「会座」の課題となるのですが、それは次回に譲らせていただくとして、もう少し第一の「会座」のことについて触れたいと思います。
 「方便品」では、現実を客観的に直視するために必要なものとして、「仏の智慧〈ちえ〉」が示されています。
 ただし、仏様は弟子たちの中で、智慧第一といわれた舎利弗〈しゃりほつ〉に向かって、「仏の智慧ははなはだ深くて、計り知れないばかりか、それを理解しようとしても、なかなか理解できるものではない。いくら心が清浄〈せいじょう〉だからといって、それだけでは理解できるものではない。そこをよく自覚しなさい」と戒めてもおります。
 さらに、「方便品」では続けて、仏様がこの世に出られた目的を明示しています。それによると、その目的とは、ひとえに多くの縁ある人たちに「仏の智慧」を与えたいがためだということなのです。そして、人びとが「仏の智慧」によってこの世を生きていってほしい、そのために「会衆」の心を開くのだとあります。

  無学人

 「妙法蓮華経」の第九番に「授学無学人記品〈じゅがくむがくじんきほん〉」というものがあります。
 「授学」の後に「人」という字が省略されておりますが、「学人〈がくじん〉」と「無学人〈むがくじん〉」という言葉が含まれております。
 皆さんは、「無学の人」といわれたら怒るでしょうね。「私をそんなに馬鹿にするな!」といいたくなるかと思います。ところが、仏教では「無学」といわれると、最高に嬉しいものなのです。いまは、まるっきり逆の意味で受け止められていますが、仏教の世界では学ぶべきことが多く残っている人を「学人」といいます。
 そして、学んで学んで学び尽くして、もう学ぶことが何もない人を指して「無学人」といっているのです。
 仏様はそういう「学人」と「無学人」を併せて「授記〈じゅき〉」、つまり、「あなたも仏になれる」という保証をされるのです。
 この「授記」により、多くの弟子たちは「自分は仏の子なのだ」という自覚を持つようになります。ただ単に仏弟子ではなくて、仏弟子である前に、自分と仏様は情の通った親子の関係であるということです。これを「仏子〈ぶっし〉の自覚」といっております。この仏の子であるという自覚は、表現を変えると「愚かだと思っていた私でも、仏の智慧が得られる」という自覚なのです。
 さらに、第一の「会座」の最後となる第十番の「法師品」では、「仏子の自覚」を持った弟子たちに対して、「菩薩の自覚」の重要性が説かれます。
 たとえば、兄弟・姉妹が大勢いると、親の手が子どもに行き届かないものです。そんな時、親ではなく、同じ兄弟・姉妹ですが、自分より幼い弟・妹の面倒を親に代わって見てくれるお兄さん役、お姉さん役がいます。『妙法蓮華経』ではそれを「菩薩」だとしています。親になり代わって弟・妹の面倒を見られるような人は、自分が親になった時、子どもが育てられるような予行演習がちゃんとなされているということです。
 『妙法蓮華経』では、この「菩薩の自覚」の重要性を説いています。そして弟子たちに「菩薩の自覚」が高まったその時、お説法の舞台は第二の「会座」へと進んでいきます。

〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕