「三帰五戒」                         北 貢一


  無上の悟り

 前回、二十八品〈ほん〉から成る経典『妙法蓮華経〈みょうほうれんげきょう〉』の第十六品(如来寿量品〈にょらいじゅりょうほん〉)についてお話しいたしましたので、その続きから入りたいと思います。
 第十七品は「分別功徳品〈ふんべつくどくほん〉」、第十八品は「随喜功徳品」〈ずいきくどくほん〉、第十九品は「法師功徳品〈ほっしくどくほん〉」と申しまして、それぞれ「功徳」という言葉がついてございます。ここでいう「功徳」というのは、あくまでも「心の功 徳」です。どんなことがあっても動揺しないような心が得られるという意味の「功徳」でございます。
 そういう「功徳」が説かれた後に、第二十品(常不軽菩薩品〈じょうふきょうぼさつほん〉)がございます。ここでの菩薩は名前が不明で、あだ名として「常不軽」とされております。この章では、出会う人の人間性というか、本質を拝むという徹底した人間礼拝が説かれております。
 『妙法蓮華経』を知る知らないにかかわらず、一番私たちに馴染みの深い章が第二十五品の「観世音菩薩普門品〈かんぜおんぼさつふもんぽん〉」です。「観音経〈かんのんぎょう〉」と呼ばれて、一つのお経典として独立しているかのように思われている方が大勢いらっしゃるほどです。
 この章では、「無尽意菩薩〈むじんにぼさつ〉」という菩薩が登場してまいります。そしてこの「無尽意菩薩」とお釈迦様との問答によりお話が展開していくのですが、結びのお言葉に、「仏、是の普門品を説きたもう時、衆中の八万四千の衆生、皆、無等等〈むとうとう〉の阿耨多羅三藐三菩提〈あのくたらさんみゃくさんぼだい〉の心を発〈おこ〉しき」という文がございます。
 この第二十五品を聞いた人たち、そしてそれに感動した人たちは、皆、それぞれ個性を持っているわけです。同一には扱えない。仏教では、出会う人すべての方を尊重するわけですけれども、その個人差を大事にいたしませんと、悪平等に陥ってしまいます。そういうことで、「無等」という言葉が使われております。「無等等の阿耨多羅三藐三菩提」を意訳しますと「無上の悟り」という意味になります。人々がそういう境地になったということが、この第二十五品には書かれています。

  諸悪莫作

 これまで、数回にわたってお話ししてきたことを要約すると、仏法で最も大切なことは、「三帰五戒〈さんきごかい〉」ということになります。仏法というのは、八万四千もありますが、その理念は「三帰五戒」に集約されます。
 「三帰」の元は何かというと、「三宝帰依〈さんぼうきえ〉」です。仏教徒としての帰依の対象は、「三宝」です。中身は「仏」「法」「僧」。まず「仏」を宝のように崇める。その「仏」の説かれた「法」を宝のごとくに崇める。そして、その「法」をともに信ずる人たち、行ずる人たちも「僧」と称して崇めるわけです。
 それから「五戒」というのは、「不殺生」「不偸盗〈ふちゅうとう〉」「不妄語」「不邪淫」「不飲酒〈ふおんじゅ〉」。この五つの戒め、すべてを守るのは難しいけれど、哲学者の梅原猛さんにいわせると、「せめて三つだけでも」となる。じゃあ、何が三つかというと、「せめて殺し合いはやめてほしい」「せめて盗みはやめてほしい」「せめて嘘をつくのはやめてほしい」ということです。
 しかし、事実と反することを嘘というならば、世の中には嘘をつかざるを得ない時もあります。
 私はいま、ホスピス病棟で死の告知という問題にかかわっています。なかには告知できない人がいます。「あなたはがんの末期です」といえません。「私、まさかがんの末期じゃないでしょうね?」と聞かれて、「いやぁ、大丈夫です」といってしまう。嘘は承知です。仏教は嘘をついてはいけないのです。「余命は半年ですよ」といわなければならない。本当のことをいってあげなければいけないけれども、その人を思うなら、とても難しい問題です。
 「三帰五戒」というふうに仏法を絞りましたが、有名なお話がございます。
 中国・唐の詩人に有名な白楽天がおります。白楽天が、地方の役人として赴任した時に、たまたま森の中を歩いていたら、木の上で座禅を組んで修業している「鳥 道林〈ちょうかどうりん〉」と呼ばれる禅師に出会います。
 白楽天はこの禅師に「仏法の極意如何?」と問います。そうすると、禅師は「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教〈しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう〉(=悪いことをするな、いいことをしろ、その心を清めろ)」と答えたそうです。これが仏の教えだというのです。
 禅師がそういうと、白楽天はあざ笑って、「なんだくだらない。そんなことなら三つの子だって知っている。それが仏法か? 仏法なんてくだらない」と。それを受けて禅師は、「なるほど、そうだ。三歳の幼児でも理解できるであろう。ただし、八十歳の翁が行ずることができるかというと、できないのではないか?」といったそうです。
 それに対し、白楽天は「本当にそうだ。自分もやれといわれてもどこまでできるかわからない」といい、禅師について仏道を学び、善政に励んだということです。その中の有名な言葉が「諸悪莫作」です。悪い事はしないのではなくて、できなくなるということです。

  諸法実相

 「三帰五戒」と並んで、もう一つ重要な「教え」がございます。この世に存在しているすべてのものは、そのままで真実の相〈すがた〉をしていると説く「諸法実相〈しょほうじっそう〉」です。「みんな必要、みんな大切、みんなすばらしい」ということです。
 「生」の対には必ず「死」があります。人は死亡率 一〇〇%で、例外はございません。「死」のことをいいますと、日本人は「縁起でもない」と嫌がりますが、「死」は厳然たる事実です。
 「生」と「死」を二字熟語のようにして、仏教では「生死〈しょうじ〉」と読んでおります。そして、「死」は避けて通れないのだから、避けて通ってはいけないと仏教では教えます。
 確かに、若いということはすばらしいけれど、年をとらないとわからない大事なこともあるはずです。老いることも大事なんですね。
 長生きすれば長生きするほど、老いていくわけです。だから、若い人は年寄りを馬鹿にしてはいけないし、年寄りも若い人を「この若造!」と馬鹿にせずに、お互いがよきところを尊重しあうことが大事なのです。

〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕