「業」とは何か                         北 貢一


 たとえば、総選挙で、A党が大勝し、B党が大敗となり、両党の明暗がくっきり分かれる結果になったとします。仏教の「業〈ごう〉」の考えに則れば、大勝したA党には「よい業」が、大敗したB党には「悪い業」があったということになります。しかし、「業」本来の意味を知れば、両党の立場はたやすく逆になり得ることもわかります。
 幸福と不幸を分けるのが業だとすれば、仏教を学ぶ上のみならず、普段の生活を送る上でも、業を理解することは有益です。が、業は非常に奥深い事柄であり、限られた紙幅ではすべてをお伝えできないことを先にお断りしておきます。しかし、その本質について少しでもご理解いただきたいと思い、今回は業を取り上げました。

  「生老病死」に深い影響

 「善因善果〈ぜんいんぜんか〉」「悪因悪果〈あくいんあっか〉」という言葉がありますが、「善悪の行為は、因果応報の道理によって、後に必ず結果を生む」というのが仏教の大きな考えの一つです。一方、悪人も善人も赤ん坊として生まれ、年をとって老いていきます。時には病気にかかることもありますし、誰しもが平等に死を迎えます。仏教ではこれらを、人生の中で避け難い四種の苦悩として「生老病死〈しょうろうびょうし〉」と呼んでいます。そして、「生老病死」にはその人の業が深く影響している、というのが仏教の考え方です。
 現世に「生」まれる時には、「宿業(前世の業)」が影響していると考えられています。いくら「裕福な家に生まれたい」「天才に生まれたい」と願っても、その通りに生まれることはできません。業は人生のスタート地点を決めるのです。
 「老・病・死」においては、「現業(今世の業)」が影響すると考えられています。つまり、生まれた後は前世の業は影響しない、人生とは自分の力で切り開くもの、ということになります。
 したがって、いくらスタート地点がよかったとしても、その後どうなるかは、これもまた人それぞれ。いくら恵まれた境遇に生まれ落ちたとしても、手放しで喜んではいられません。後の業によっては、そうした幸福はたやすくなくなるともいえるからです。
 逆にどん底にあったとしても、善行を積めば、よい業が創造され、必ずよい報いが得られるのです。人生をこうとらえることができれば、どのような境地にあっても、目標を持った充実した毎日を送れるのではないでしょうか。
 ところで、業の考えには、例外も存在します。不慮の事故等、天命を全うせずに迎える「横死」や、まだ若いうちにこの世を去ってしまう「夭死」がその例です。これらは業にあらざる死、つまり「非業の死」ととらえています。

  当たり前の理屈ほど……

 さて、現世・来世の業を決定づける善悪の対象となるものとは何なのでしょう。それは、「身(体で行うもの)」「口(言葉で行うもの)」そして「意(心で行うもの)」の三つであり、これらを「三業」と仏教では総称します。体で行う暴力、言葉で行う悪口が、悪い業の代表例でしょう。また、いくらよいことをしたり、よいことをいったとしても、舌先三寸で、心の中で悪いことを考えていれば、これも悪い業となります。いわば業とは、善悪の果報を生み出す「原因」にあたるものと考えればわかりやすいかもしれません。
 では、よい果報を得るためには、どうすればよいのでしょうか。仏教にある、次の四つの言葉によい業を得るための心がけが示唆されています。@「諸悪莫作〈しょあくまくさ〉」=もろもろの悪いことはしない、A「衆善奉行〈しゅぜんぶぎょう〉」=いろいろな善を行う、B「自浄其意〈じじょうごい〉)」=自ら己〈おのれ〉の心を清らかにする、C「是諸仏教〈ぜしょぶっきょう〉」=心が清らかになったことで、自然と善行はする、悪行はしないという心になっていく、これが諸仏の教えである。
 ごく単純にいえば、「よいことをしよう、悪いことはしない」ということですね。そんな当たり前の理屈は子どもでもわかる、という意見があるかもしれませんが、ではそれを完璧に実践されていますかと質問されたら、どう答えますか? 簡単なことなのに、実際に行うとなったら、これほど難しいことはありません。私は仏教を身近にしていますが、それでも難しい。私が傾倒している仏教を研究されている諸先生も、「もともと仏教の教えというのは、守りたくてもなかなか守れないようにできている」とおっしゃっていますが、まさにその通りだと思います。

  「十善十悪」

 さて、「よしわかった、心を入れ替えて善を行おう」と思った方に少し意地悪な質問をしてみたいと思います。何が善で何が悪か、わかっていらっしゃいますか、と。むしろ、善悪は表裏一体である場合が多い。たとえば、卑近な例ですが、休日に誰に迷惑をかけるわけでもないと寝ているご主人に向かって、「この人ったら、休みともなると一日中ゴロゴロして!」と怒る奥さんがいらっしゃる。この場合、どちらが善でどちらが悪なのでしょうか。その答えは、また人それぞれでしょう。
 仏教では、犯してはならない悪、するべき善をそれぞれ十ずつ挙げており、「十善十悪」といっています。
 よい行い、悪い行いをするのは「身口意」の三業があると先ほど申し上げました。「十悪」では、身で行う悪行として、「殺生、偸盗〈ちゅうとう〉(盗み)、邪淫(誤った男女関係)」を、口で行う悪行として「悪口、両舌(二枚舌)、妄語(嘘いつわり)、綺語(おべんちゃら)」を、心で行う悪行として「貪欲〈とんよく〉(煩悩のもとになる深い欲望)、瞋恚〈しんに〉(怒り)、邪心(よこしまな心)」を挙げています。
 以上の十の悪行に対して、「十善」とは何かというと、実は十悪の頭にすべて「不」をつけるのです。つまり、「不殺生、不偸盗……」となります。
 すなわち、悪行をしないことこそが善行なのです。よいことだけを完璧にし続けていくのは難しいものです。しかし、心がけ次第で十悪を犯さず生きていくことは十分、可能なのではないでしょうか。また、悪をしないことが善であるという考えの前提には、逆に放っておけば悪いことをするのが人間だと仏教はとらえていることを指摘しておかなくてはなりません。十悪を行わないことにも、努力が必要なのです。

〔北貢一著『七歩あるいて読む仏教』(リベラルタイム出版社)から著者の許可を得て転載〕