「縁起」の教え                         北 貢一


  「縁」のつかみ方

「いいご縁」「縁がなかった」等、一般的に、人と人とのかかわり合いや、巡り合わせを縁といいます。生きていく上でも「縁」は非常に大切にしなければならない事柄ですが、それは仏教を学ぶ上でも同様です。
 この「縁」を、仏教では「原因を助けて結果を生じさせる作用」と位置づけています。また、この「縁」によってすべての物事が起こると考えますので、「縁」の下に「起きる」という言葉を付け加え、「縁起(えんぎ)」と呼びます。現代風にいえば原因と結果の法則というところでしょうか。
 たとえば、畑に蒔いた種も、水や肥料なしには育ちません。種を原因、花を結果とするなら、この水や肥料こそ「縁」にあたります。人間にとってこれに相当するのはおそらく「行動」でしょう。人間には、見る、聴く、嗅ぐ、味わう、触るという五感があります。五感を使わず、何もしないでボーッとしていては、他の人とのかかわり合いはできませんし、ご縁が生まれるとはいい難いですね。何かしら行動を起こした時に「縁」は生まれるものです。
 仏教では五感を「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識」と表し、これらを総合して「前五識(ぜんごしき)」といいます。そして、それらをまとめているのが「第六識」です。一般的に「第六感」と呼ばれるものです。
 年老いたベテランの漁師が「今日は船を出さないほうがいい」と若い漁師にいう。若い漁師たちが「こんなに天気がいいのに変なことをいうなぁ」と不思議がっていると、案の定、後に大変な時化(しけ)になってしまう。こんなことが昔からよくあるそうです。天気予報を細かく分析したわけでもないのに、なぜわかるのでしょうか。波の動きや風の音、雲の流れ等、五感を使って自然の微妙な動きを感じることもあるでしょう。しかし、長い経験の中で培われた「第六感」の役割も大きいと思います。
 この目には見えない第六感と「縁起」は密接にかかわり合ってくるとされます。鈍感な私には全然わかりませんが、あまり感覚が優れ過ぎてしまうと普通ではわからないことまでわかってしまうらしいですね。長い人生ではすべてを知り過ぎてしまって、かえって恐怖に苛(さいな)まれるといったことがたびたびありますから、「知らぬが仏」という言葉は、もしかしたらそういうところから来ているのかもしれませんね。

  釈迦の人生観

 こんなお話があります。お釈迦様が『平家物語』で有名な「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」にいた時のことです。
 ある日、お釈迦様は「縁起」と「縁生(えんしょう)」という言葉について弟子たちに話しました。「まず、縁起というのは、どのようなことだろうか。たとえば、生があるから老死がある。このことは、私がいようといまいと、決まっていることだ。存在の法則として定まり、確立していることである」
 生があるから老病死がある。この法則は生き物として生まれたからには永久に存在し続けます。だから、この法則はお釈迦様が生まれようと生まれまいと、また、悟ろうと悟るまいと、一切関係がありません。そんな一見「当たり前」に見える法則をお釈迦様は、悟り、教え示したのです。
 次に、お釈迦様は「縁生」について語りました。
「縁生とは、生きることの苦しみは何事も条件があって初めて生じるものである。だから、条件をなくせば、それらをなくすことができる」
 お釈迦様の課題は、生まれてから必ず一度は経験する老病死をどう捉えるかということでした。そして、お釈迦様自身は、その課題を縁起の法則を悟ることによって解決しました。お釈迦様は最後の説法で、「苦は縁生なり(苦しみには原因がある)」と表現しています。

  万物は必ず滅びる

 私が最初この話を聞いた時、縁起と縁生、一体どこが違うのかわかりませんでした。しかし、実際の意味合いは同じなのです。この「生」は生じるということですから、起こるということとそれほど意味の違いはありません。ただ、ここで問題なのは、何で縁起のことを縁生と、異なる表現を用いたのか、ということです。
 実は「縁生」の裏側には「縁滅(えんめつ)」という言葉が想定されているのです。「縁生」の「生」とは、先にも申しましたが、生きるという意味ではなく、生まれる、誕生するという意味です。この反対が死を意味する「滅」です。
 人は誰しもいずれ死を迎えます。それは私たちが「有限性」を持った存在だからです。この限りある存在を「法則」として捉えたのが縁起の法則なのです。
 生があれば滅があり、また滅があれば生があります。だから、一度生じたものは必ず滅し、決してそのままの状態で存在し続けるということはありません。「無限性」を持った生物はいません。物事には必ずこの「縁生」「縁滅」の法則が介在しているのです。
 ですから、仏教を学ぶ上でこの縁起の法を理解することはとても大切です。そして、この法を悟ることを仏教では「智慧」といいます。古代インドの高僧で、仏教理論の確立に功績があったナーガールジュナ(龍樹)は次のような言葉を残しています。「仏教において最も大事なのは智慧であるが、この智慧は縁起の法を悟ることによって得られるのだ」と。
 お釈迦様はこの縁起の法を正しく悟ったことで限りなく穏やかな心境に達したとされています。日本でも同じような考えで捉えることができるのが茶道ではないでしょうか。お茶の「一期一会(いちごいちえ)」の精神はまさにそれを教えています。茶道の世界では「自分はもう常連だから」とか「あの人は常連のお客さんだから」といった考え方はタブーだそうです。いつでも、今日の出会いが最初の出会いであり、同時に、最後の出会いと捉えます。一生に一度だという思いを込めて、誠心誠意相手に接することで、真心や思いやりの心が自然と生まれます。
 その意味では、仏教の縁起の教えも茶道の心得も、本来、世界のあるべき姿を教えているのかもしれません。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕