「人格と業」                         北 貢一


  仏教で大切な教えの一つ「業」

「殺さない、盗まない、嘘をつかない」
 これは仏教でいえば、よい「業〔ごう〕」つまり「善業〔ぜんごう〕」を指しています。今回は「業」の意味をお話しいたします。
 『詩人散歩』平成二十四年秋号でも「業」についてお話しいたしましたが、「業」とは何かと簡単に申しますと、自ら行った善悪の行為が一定の結果として現世、来世で現れることです。「業」は身業〔しんごう〕、口業〔くごう〕、意業〔いごう〕の三つに分けられ、これを「身口意〔しんくい〕の三業」といいます。
 身業は、身体における行動です。殺生〔せっしょう〕、偸盗〔ちゅうとう〕、邪淫〔じゃいん〕です。
 口業は、口舌〔こうぜつ〕による言語作用です。妄語〔もうご〕、両舌〔りょうぜつ〕、悪口〔あっく〕、綺語〔きご〕です。
 意業は、意識による思考作用です。貪〔とん〕、瞋〔しん〕、邪見〔じゃけん〕です。
 いずれもそのままですと「悪業〔あくごう〕」です。しかし不殺生、正見……といった「不」や「正」をつけると「善業」になります。
 さらに「業」を行うのに、動機・目的があるのかないのかに分けられます。
 意業は意思です。よいことにせよ悪いことにせよ、動機・目的によってなされます。
 身業と口業は実際行動です。やはり動機・目的がかかわってきます。
 動機・目的がないまま行う「業」も、もちろんあります。それを行為の余力とか習慣力といいます。つまり慣れです。
「身口意の三業」も、動機・目的がなくても実際行動をやってしまう行為の余力、習慣力も、どちらも「業」なのです。

  人格を形づくる「業」

 ですから私たちは、日頃よい心の行い、よい実際行動をして、よき習慣を身に着けると、余力としての習慣力がいいほうに働いていくのです。私たちの行為経験は、必ず私たちに蓄積保存されて、私たちの知能・体質を形成し現在の私たちの「人格」となっていくのです。
 教育基本法の中にも教育の目的として「人格」が出てきます。しかし、そこには人格の中身がはっきりしておらず、非常に抽象的な表現になっています。
 私自身もこの質問を投げかけられ、返答に困ったことがあります。そこで四十二年くらい前に、ある先生にうかがいました。
「人格に何か定義付けはあるんですか」
「そりゃありますよ」
「それは何ですか」
 教えていただきましたことは、仏教でいう「人格」には四つの側面があるということです。四つとは知的、情意的、肉体的、技術的です。この四つのバランスがとれているかいないかによって、その人の人格が高邁か低劣かに分かれてしまうのです。「人格」をつくるのが「業」なのですね。
 いま、私が筆をしたためていることは私の「業」となりますし、皆さんは私の話を読まれるという「業」を積んでいることになります。記憶からは薄らいだり消えてなくなるかもしれません。が、しかし『七歩あるいて読む仏教』を読まれていることは永遠で、消えてなくなりません。残ります。
 そして残っている「業」がいまとの結びつき、「因果の理法」となるのです。善因〔ぜんいん〕からは善果〔ぜんか〕、悪因〔あくいん〕からは悪果〔あっか〕。果(結果)を生み出す因(原因)は、善悪の業なのです。「因」は善悪の業ですが、結果の「果」は異熟〔いじゅく〕(無記〔むき〕)といい、つまり善とか悪とか記しがたいことなのです。ある経典にも「因是善悪、果是異熟〔いんこれぜんあく、かこれいじゅく〕」とあります。「因は善悪ですが、果ははたして善悪かどうかわからない」ということなのです。
 善悪は極めて倫理的、道徳的なもので客観的です。つまり私にとって善なるものは、皆さんにとっても善なるものでなくてはならないのです。個人的にもいえることですが、国際的にもいえることですね。

  「業」の教え

 また、「業」は個人的な業と、集団的な業に分けられます。個人的な業を不共業〔ふぐうごう〕といい、その人固有の業です。集団的な業を共業〔ぐうごう〕、社会的な業です。いまこれだけ社会が個人と密接に関わってきますと、個人だけというわけにはいかなくなってまいります。どうしても社会的なことに引き込まれていく、共業の問題に不共業が巻き込まれていきます。現代社会は国内的にも国際的にも共業としての問題が、個人の上に重くのしかかっています。戦争やめましょう、個人的にはみんなそう思っていても、集団となりますとそうはいかない。世界の紛争地は、私、先日何かの資料で読みましたが五十カ所と書かれていました。いつ何時私たちも共業に巻き込まれていくかわかりません。
 ですから、私たちは個人的によい業を積むのも大事ですが、集団的にもお互いによい業を積むのが大事、ということです。
 それを言い表したのが「共業から発した〈恩〉の思想」です。
 仏教ではよく「四恩〔しおん〕」をかかげます。『心地観経〔しんじかんぎょう〕』というお経があるのですが、そこには「父母の恩」「衆生〔しゅじょう〕(社会)の恩」「国の恩」「三宝〔さんぼう〕(仏法僧)の恩」とあります。
 江戸時代の初期、元武士で出家した鈴木正三〔しょうさん〕は「四恩」にちなんで「父母の恩」「衆生(社会)の恩」「国の恩」「師(釈迦)の恩」を説きました。そして身分制度が厳しい時代に「農工商がいて必要なものが我々の手に入り、口に入って来るのだ」と、説いたそうです。これは特に「衆生(社会)の恩」の教えですね。
 農工商の人たちが一生懸命働いてくれて得た成果を我々に分けてくれ、我々の生活が成り立っているのだということです。生産に携わる人たち、農民が農民としての、職人は職人としての心構えに基づいて作物・作品をつくっていく。商人は商人道としての心構えで作物・作品を売っていく。そういうところに恩の思想を唱えています。
「業」は未来のためのものです。「業」を学びまとめていきますと、過去どうであったかよく反省し、再び悪業を繰り返さないよう、これからどう善業を積んでいくかを教えてくれるのが「業」なのです。過去を嘆くためのものではありません。
「悪い業」ばかりに心を奪われてしまって、肝心の未来をつくっていくことを忘れてしまうのは、決して正しい仏教の理解ではないのです。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕