「智慧」の教え                         北 貢一


  「知見」を妨げる煩悩

 仏教の基本的な教えは、如実知見〔にょじつちけん〕、つまり「あるがままを、あるがままに知る、見る(知見)こと」でしたね。
 これを仏教では智慧〔ちえ〕ともいいます。すなわち悟りです。
 その「あるがままを、あるがままに知見すること」を妨げているものは「煩悩」です。煩悩は百八つあるといいますが、その中からいくつかを説明いたします。
 まず「偏見」。どうしても私たちは偏った見方、固定観念を持ってしまいます。自分がこうと思ったら、なかなか改めるのは難しい。
 それから「殺生」。最大の「殺生」は戦争です。普通だと人を殺すと裁きを受けますが、戦争は殺せば殺すほど勲章をもらう。なんという世界でしょう。一方、私たちが生きていくのに必要な食事は「命をいただいている」ともいえます。牛、豚、鳥、魚、野菜や海藻だって生きています。その命をいただくことで自分が活動させていただける。食事に心から感謝する、そういう心を持つことが大事とも説いております。
 次は「妄語」。つまり嘘です。TVで大映しにされても、いけしゃあしゃあと嘘をついている人もいますね。そして隠し通すことができなくなり白状。悲しいですね。
 しかし、仏教では嘘も方便という諺があります。相手のために必要な嘘なら、たとえ事実に反することを述べても、それは妄語ではありません。いってはならない事実をいったため相手の立場が危うくなり、結局は死に追いやってしまった例もあります。事実であってもいっていいことと悪いことがあるのです。
 では何を話すべきで、何を話すべきではないのでしょうか。非常に難しいです。相手を思っての表現は、一通りではありません。ですからそれを仏の智慧と呼んだのです。
 そして「偸盗〔ちゅうとう〕」。略奪や詐欺です。一時期、オレオレ詐欺が流行りましたね。巧妙に肉親になりすまし、騙してお金を盗る。煩悩が顕著に表れるのはお金ではないでしょうか。
 また、いくつもの煩悩が合わさることもあります。恐ろしいことです。
 では悟りの境地に少しでも近づくためにはどうしたらよいのでしょうか。それはただ願っているだけでは駄目で、現実のありようをあるがままに知見し、悟り、そしていかに理想を実現するかが大切なのです。
 つまり、「いかにあるか」(現実のありよう)→「いかにあったらいいか」(理想の姿)→「いかになすか」(理想の実現)というプロセスが大切なのです。

  相手の苦を癒す

 「あるがままを、あるがままに知見すること」すなわち「智慧」が情的に現れた時、慈悲となります。
 慈悲を具体的にいいますと、殺さない、盗まない、嘘をつかないということです。慈と悲は違う意味合いを持った言葉で、いつどこで誰が二字熟語にしたのかはわかりません。
 慈悲の慈は、サンスクリット語で「マイトリー」です。原語は親しい友の意味「ミトラ」が変形したものです。厳しいことはいってくれるけれど、裏切ることは絶対にない。これが慈であります。悲はサンスクリット語で「カルナ」、呻きという意味です。自分が呻くような苦しみを知っていることにより相手の苦を癒すことなのです。
 中には「ほっといてくれ」という人もいるでしょうけど、ほっとけないと思うことが、仏教でいう慈悲、思いやりや助け合いなのです。
 他人の行いは目で見てわかります。しかし、自分自身のことが実は一番わからないものです。自分のことが一番見えないのに、他人にお節介をやく。そのお節介が、相手にとってありがたい、非常に感謝される有効なことだといいのですが……。でも助け合いとはそういうことなのです。
 仏教寓話に、こんなお話があります。
 極楽の部屋と、地獄の部屋。どちらの部屋も食事が用意されています。
 ただしどちらも、とても長い箸を使わなければいけません。長い箸では、自分で食べようとすると、上手く口に運べません。
 同じ条件だけれども、極楽の部屋は、和気藹々〔わきあいあい〕と楽しげに食事ができました。地獄の部屋は、ご馳走がそこら中に落ちてとんでもないありさま。なぜ違うのでしょうか。
 それは、長い箸では自分の口に入れようとすることはできませんが、他の人の口になら入れられる。そうすると他の人も私の口に入れてくれる。こういう違いが、極楽と地獄にはあるという寓話です。違うのは自分勝手、自分さえよければいいという、自己中心的な集まりの集団か否かなのです。

  「沢庵和尚」の讃

 「あるがままを、あるがままに知見すること」(智慧)についてもう一つ、禅宗の僧侶、沢庵和尚のお話をしましょう。
 東海寺住持になり、名僧といわれて結構名前が知れ渡った頃、ある青年が遊女の絵巻物を持って沢庵和尚を訪ねました。遊女がちょっとしなだれかかっている、色っぽい絵柄でした。沢庵和尚は本当に世にいう高僧、名僧なのか、一つ試したいと思い、持って行ったのです。絵巻物を見てどんな顔をするのかと試した時、沢庵和尚は目尻を下げてだらしない顔になりました。
 青年は「なんだ、ただの坊主だ」と心の中で思ったそうです。でもせっかく来たので、絵の横に讃〔さん〕(仏や高僧を讃える歌)を書いてくださいとねだりました。
 そこで沢庵和尚、青年に墨をすらせ、墨痕鮮やかに有名な詩をしたためました。
  仏は法を売り、祖師は仏を売り
  末世の僧は祖師を売る
  今この遊女は五尺の身を売って
  煩悩熾盛〔しじょう〕の凡夫を救う
  水の面〔おも〕、夜な夜な月を宿せども、
  心も留めず、影も残さず
 そして、
  花は紅なり 柳は緑なり
 と添えたといいます。
 その時、禅師そのものの、堂々たる顔つきに変化したといいます。青年は「あっ」といわんばかりに驚き、「さすが沢庵禅師だ」と気持ちを改めたと、記録に残っております。
 色っぽさにだらしない顔になったのも沢庵和尚であれば、讃を毅然とした顔でしたためたのも沢庵和尚。どちらも同じなのです。
「花は紅 柳は緑」。これは禅宗において悟りの心境を示す時好んで用いられる言葉です。物事をあるがままに見て素直に感じることは「智慧」といい、すなわち悟りに近づくのです。
 遊女に尊敬の念を送り、美しいもの、よいものはよいと素直に感じる。それがまた、あるがままを、あるがままに見ていることなのです。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕