最澄が説く「戒」の本質                         北 貢一


 現在、日本には多くの仏教宗派が存在し、微妙な解釈の違いで細かく分かれています。
 多数ある宗派のうち、一体どれが正しいのか、不思議に思われるでしょう。それについて私なりの解釈がございます。私が大好きな詩『私と小鳥と鈴と』という金子みすゞさんの詩をご紹介します。皆様のご理解のヒントになれば幸いです。

  私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のやうに、
  地面(じべた)を速くは走れない。

  私がからだをゆすっても、
  きれいな音は出ないけど、
  あの鳴る鈴は私のやうに
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。

 金子さんの言葉をお借りすると、仏教宗派がいくつあろうと「みんなちがって、みんないい」と私は思うのです。その根底にある釈迦の教えは変わらないのですから。

  底下の最澄

 今回は「戒」の教えについてお説きになった、日本の天台宗の開祖・最澄に絞ってお話をいたします。
 天台宗の根本経典は、法華経であります。中国天台宗の智者大師・智(ちぎ)は「法華最第一」の理論を確立した人でした。智者大師・智を知らずして法華経を語ることはできないといわれるほど大切な人です。特に智の著作の『法華文句(ほっけもんぐ)』(法華経の解釈)、『法華玄義(ほっけげんぎ)』(法華経の題目の解釈)、『摩訶止観(まかしかん)』(法華経の実践を説いたもの)は、天台三大部、または法華三大部といわれ、とても大切にされています。中国天台宗があるからこそ、日本の天台宗があるのですね。
 最澄は幼名「広野(ひろの)」のままで出家し、年表上、十九歳で東大寺で受戒、これで僧になられたといいます。受戒は二十歳からと決められておりますので、最澄は一歳サバを読んだかもしれない、という説もあります。
 最澄が受戒されました時に作成した『願文(がんもん)』(仏事等を営む時、その願意を記した文)には、私たちが住んでいる現実はいかに苦の多い世界であるか、それに呼応するように僧が堕落していると批判、そして猛烈な自己反省がしたためられています。
 文中に、こういう一節があります。
「愚の中の極愚(きょくぐ) 狂の中の極狂(ごっきょう) 塵禿(じんとく)の有情(うじょう) 底下(ていげ)の最澄」
 これは、「愚かな者の中で最も愚かで、狂った者の中で最も狂った者で、頭は剃っているが埃(ほこり)だらけで、煩悩に満ちた最低人間の私である」という意昧です。
 僧になり、最澄という名前をもらってから初めての書だと思いますが、自分を徹底的に貶(おとし)め、そういう自分だからこそ一生懸命修行に励む誓いを込めた『願文』なのです。この最初の決意が、後の最澄が考える「戒」に繋がっていくのです。

 懺悔の心

 『戒の本質、それは懺悔(さんげ)にある』
 これは最澄の「戒」の考えです。「戒」はただ守るものではなく、守ることにより己(おのれ)の至らなさを反省し懺悔する手段だとしています。
 たとえば「五戒」という釈迦の教えがあります。不殺生戒(ふせっしょうかい、殺してはならない)、不倫盗戒(ふちゅうとうかい、盗んではならない)、不邪淫戒(ふじゃいんかい、淫らなことをしてはならない)、不妄語戒(ふもうごかい、嘘をついてはならない)、不飲酒戒(ふおんじゅかい、酒を飲みすぎてはならない)。基本的な五つの戒律ですが、なかなか守れません。たとえば不殺生戒。生きている限り、肉や野菜を食ベます。ということは生あるものの命をいただいて、生きているわけです。
 その時に、当たり前だという気持ちで何の反省の気持ちもなく食べるか、尊い命の一部をいただいているので無駄に使っては申し訳ないと思うか。そういう懺悔の心を本質としているのが、「戒」ではなかろうかと、説いております。
 「底下」と自分を評している最澄は、そんな自分が、人のために少しでも役に立とうという気持ちから、いろいろな教えを残しております。いくつかをご紹介させていただきます。
 「道心(どうしん)の中に衣食(えじき)あり。衣食の中に道心なし」(『伝述一心戒文(でんじゅついっしんかいもん)』より)
 道心とは、仏道を求める心です。その心には、守らねばならない戒律が実際は守れない、その懺悔の心も入っているのでしょう。これが悟りへ近づくのです。
 「怨(うらみ)を以って怨に報いれば、怨止まず。徳を以って怨に報いれば、怨すなわち尽く」(『伝述一心戒文』より)
 怨みに思うことがあっても、それを「怨」で晴らすのでは、怨みの連鎖は止まりません。「徳」でしか、「怨」は消えないのです。
 「悪事を己に向(むか)え、好事を他に与えよ。己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」(『山家学生式(さんげがくしょうしき)』より)
 悪事は、この場合は悪いことではなく人が嫌がることです。自らは人の嫌がることをし、他人には利益を与える。これを四文字熟語でいいますと『忘己利他(もうこりた)』といいます。

  自己を反省する

 「国宝とは何ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名付けて国宝となす。故に古人の言(いわ)く、径寸十枚(けいすんじゅうまい)、これ国宝に非ず。照于一隅(しょうういちぐう)、これすなわち国宝なり」(『山家学生式』より)
 国にとっての宝は、価値があるといわれる古い貨幣等ではありません。仏道を求め懺悔の心を持った人間を宝と呼ぶということです。すべてを照らすような心を持った人間こそ、それに代わる宝はないという意味なのですね。
 『照于一隅』についてですが、ある議論が起こりました。最澄がお書きになった文字は「千」か「于」か、微妙な文字ゆえどちらにも読めましたので、二つの意見に分かれたのです。千の場所を照らすと読むべきか、一隅をも照らすと読むべきか、過去に天台宗派内で「一隅運動」が起こったのです。最近は聞かなくなりましたので、おそらく「于」(一隅をも照らす)をとったのではないでしょうか。
 研究の世界では譲ったら駄目ですが、信仰の世界では一字くらいどうってことないと私は思うのです。たった一字で争いが起こる、こんな愚かなこと、あるでしょうか。しかし争っている人にとっては、それが信念なのですから、どうにかしなくてはいけないと思います。
 最澄の教えは自己を反省する教えです。「争ってはならないけれど、争ってしまう」ことを反省する、これが「道心」の一部であると思うのです。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕