「般若心経《のエッセンス                        北 貢一


 仏教を勉強しておりますと、たびたび「智慧《という教えが出てまいります。「智《は平等の中にある差異を見分ける働きです。「慧《は一切の事物は本質的に皆平等であることを知る働きです。
 つまり「智慧《とは相手を知ることが、己の悟りに近づくという教えです。仏教修行者が修めなくてはならない六波羅蜜という徳目にも、布施、持戒〔じかい〕、忍辱〔にんにく〕、精進、禅定〔ぜんじょう〕、そして智慧が明記されております。

  二百六十二字
 「智慧《をインドのサンスクリット語でプラジュニャーといい、その俗語形のパンニャーを漢字で音写すると般若です。『般若心経〔はんにゃしんぎょう〕』という経典を、皆様一度は耳にされたことがございませんか〔漢訳したものを文末に挙げています〕。
 浄土真宗と日蓮宗を除いて、ほとんどの仏教宗団において、修行の一環として、または日常唱えられております。浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗は『妙法蓮華経』を根本経典としているからであって、決して『般若心経』を否定するのではございません。
 『般若心経』の正式吊は、『摩訶般若波羅蜜多心経〔まかはんにゃはらみったしんぎょう〕』といいます。経題を除いて文字数わずか二百六十二字です。ですが、仏教の教えがぎゅっと集積されております。
 今回は『般若心経』のさわりを読み解いてまいりたいと思います。

  能力を補う「根《
 ポイントごとにご説明いたします。
 ①の「観自在菩薩〔かんじざいぼさつ〕《は、観音様です。
 ②の「般若波羅蜜多〔はんにゃはらみった〕《は、完成された智慧という意味です。智慧の完成とは、深い理性に基づいた知的な働きのこと。これにより悟りに近づけると説いております。
 ③の「五蘊〔ごうん〕《とは色〔しき〕、受〔じゅ〕、想〔そう〕、行〔ぎょう〕、識〔しき〕をいいます。解説いたしますと、色は人間の肉体またはあらゆる物質。受は感受作用。想は表象作用。行は意志作用。識は認識作用を指します。これは人間を構成する要素と定義しています。以上を踏まえた上で意訳しますと、「観音様は智慧を完成いたした時、照見〔しょうけん〕五蘊、つまり五蘊が感じたことの、あるがままをあるがままに見る大切さをお知りになられた《ということです。
 さらに色は五つに分けられます。眼〔げん〕、耳〔に〕、鼻〔び〕、舌〔ぜつ〕、身〔しん〕。この五つは人間が世間と触れあう窓口となります。
 この五つにそれぞれ根〔こん〕という能力があります(例……眼根〔げんこん〕)。では、たとえば眼がお悪い方はどうでしょうか。実は、それをほかの根が補っておられるのです。
 こんな話がございます。あるホテルで火災がありました。停電にもなって真っ暗になり宿泊客が騒ぎ始めた時、「皆さん落ち着いて。外へ出ましょう。私についてきて《と声が上がりました。おかげで皆、無事に外へ出ました。その声を上げた方は、盲目の方でした。
 停電と煙で、眼が見える方も盲目の方も同じ状態でした。眼は見えなくとも、耳でかすかな異常な音を聞き、鼻で異常な臭いがする方向を定めて、正しい脱出方向に導けたのです。耳根〔にこん〕、鼻根〔びこん〕、舌根〔ぜっこん〕、身根〔しんこん〕、すべてが補う働きをされたわけです。
 「五蘊《の残り、受、想、行、識は全部まとめて、意根〔いこん〕という能力があります。第六感といわれるのがこれです。眼、耳、鼻、舌、身、意、これらを六根といいます。

  「空《とは何か
 『般若心経』に戻ります。
 有吊なフレーズである④の「色即是空 空即是色〔しきそくぜくう くうそくぜしき〕《と、⑤の「受想行識 亦復如是〔じゅそうぎょうしき やくぶーにょ*ぜー〕《を読み解きます。
 「空《とは、簡単に申しますと我〔が〕がないこと。ゼロの状態です。
 つまり「色即是空 空即是色《とは、この世界の一切の物質は「空《である。そして「空《はあらゆる存在であり、あらゆる存在は「空《であるという、悟りの境地を表しております。「受想行識《はあらゆることの象徴であり、「受即是空 空即是受《「想即是空 空即是想《「行即是空 空即是行《「識即是空 空即是識《と入れ替えても通じます。「色と同じく、あらゆるものは『空』であり、『空』はあらゆる事象意識である《と説いております。
 このように一つの単語ずつ読み解いたほうがご理解しやすいと思うのですが、最後まで行くには現在のページをはるかに超えなくては終わりません。ですから『般若心経』の核心であり、繰り返し説かれている「空《の概念をご説明して、ひとまずのまとめにしたいと思います。
 「空《はサンスクリット語でシューニャ、パーリ語でスンニャ。字の意味は「膨らむもの《です。膨れあがるということは、内部がゼロであるという状態、何もなく突き抜けている状態です。また、固定されたものはこの世にはない、固定的実体がないということは永遠に変わらないという意味でもあります。そして「空《は部首吊「あなかんむり《で、穴が開いて風通しがよい意味もあります。
 このような意味をすべて含んでいるのが「空《です。
 私たちの心も風通しをよくしておかないと、何かに詰まった時に苦しくなる、お気をつけくださいという意味合いも読みとれます。私も随分仏教の勉強をいたしたつもりですけれど、難しいです。とりわけ仏教の教えのエッセンスである『般若心経』は解説書を読んでもわからない箇所が多いです。匙〔さじ〕を投げたこともありました。しかし、投げた後、突然理解できたことも多々ございます。
 『般若心経』の文字、また解説書の文字にあまりとらわれ過ぎてはいけないなと、勉強中に改めて気づかされるのです。
〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(㈱リベラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕

摩訶般若波羅蜜多心経
①観自在菩薩〔かんじざいぼさつ〕。行深②般若波羅蜜多〔はんにゃはらみった〕時。照見③五蘊〔ごうん〕皆空。度一切苦厄。舎利子。色上異空。空上異色。④色即是空〔しきそくぜくう〕、空即是色〔くうそくぜしき〕。⑤受想行識〔じゅそうぎょうしき〕、亦復如是〔やくぶーにょーぜー〕。舎利子。是諸法空相。上生上滅。上垢上浄。上増上減。是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切。顚倒夢想。究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実上虚。故説。般若波羅蜜多呪。即説呪曰。羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提娑婆訶。般若心経(中国・唐の僧、玄奘三蔵〔げんじょうさんぞう〕訳)