「良医のたとえ」                         北 貢一


  「四箇の格言」
 二十八品〔ほん〕から成る『妙法蓮華経〔みょうほうれんげきょう〕』の第十六品(如来寿量品〔にょらいじゅりょうほん〕)をたびたびご説明させていただいていますが、第十六品からは、仏教以外の宗教も尊重しなくてはいけないという、宗教協力の原点が読みとれると申し上げました。
 ところが、「日蓮宗」の開祖である日蓮上人のご遺文の中には、「四箇〔しか〕の格言」というものがございます。
 そこでは「念仏無間〔ねんぶつむけん〕、禅天魔〔ぜんてんま〕、真言亡国〔しんごんぼうこく〕、律国賊〔りつこくぞく〕」と、当時、勢力を誇っていた代表的な仏教四宗をことごとく攻撃しております。
 「念仏無間」というのは、念仏なんて唱えていると、無間地獄に落ちるということです。「無間」は「間〔あいだ〕がない」という意味で、これは人間にとって最悪な状態だそうです。無間地獄に落ちる罪人は大勢いるそうですが、罪人には「間がない」、つまり「他が見えない」わけです。自分独りぼっちですから、孤独地獄ともいうそうです。
 人間、孤独というのが一番辛いそうです。悩んでも相談する相手、解決する場がないから、とうとう精神的にまいってしまい、自殺等をしてしまうわけです。
 いま、日本の自殺者数は年間三万四千人を超えています。自殺される方々は孤独地獄に陥っている方々が多いようです。
 次に、「禅天魔」ですから、「禅宗」を信じていたら魔物の代表になってしまうとけなしたのです。
 そして「真言亡国」では「真言宗」は亡国の教えだと非難し、さらに「律宗」は国賊だとしています(「律国賊」)。
 このように、日蓮上人はずいぶん他宗攻撃をされました。しかし、当時は封建時代の真っ只中でした。そして、その時代には政治権力と結びついていた仏教徒たちが多くおりましたので、そういう仏教徒たちに警告を促したのだと私は思います。
 現在の日本は民主主義で、自由が相当認められております。しかし、あまりにも自由を主張しすぎますと、災いのもとになりますので難しいものです。
 もし、日蓮上人が現在にいらっしゃいましたら、他宗攻撃ではなく、むしろ宗教協力をなさるのではないかと思っております。

  失本心と不失本心
 『詩人散歩』平成二十一年春号に掲載しました“「仏教だけを学ぶな」といったお釈迦様”で、お釈迦様は信仰を二の次にして、まずは正しい理論(「法」)の理解を打ち出されたと申し上げました。
 その「法」の大切さを「如来寿量品」では「良医〔ろうい〕のたとえ」というたとえ話を用いて説明しております。
 お経典では、登場する良医は「智慧聡達〔ちえそうだつ〕の良医」となっております。
 この良医には、多くの子どもたちがいたとされています。この子どもたちが、良医の留守中、誤って毒薬を飲んでしまうのです。毒薬を飲んだ子どもたちは、七転八倒の苦しみを味わいます。
 その苦しみの最中に、お父さんである良医が帰ってくるのです。お父さんの顔を見て、子どもたちは安心します。苦しみからの救いを良医に求めたわけです。
 救いを求められた良医は、「良薬」をつくります。お経文には「大良薬」と出てきます。良医はこの「良薬」を飲めば治ると、子どもたちに与えようとします。
 ところが、同じ毒を飲んでいる子どもたちの症状には二通りありました。
 毒を飲んだために本心を失ってしまった者(失本心〔しつほんしん〕)と、本心だけは失わなかった者(不失本心〔ふしつほんしん〕)です。
 そして、本心だけは失わなかった子どもたちは「良薬」を飲んで、七転八倒の苦しみから解放されました。
 ところが、本心を失った者は「良薬」を飲むことを拒絶しました。飲まない限り、毒の苦しみから解放されることはないわけですが、「お父さんがなんとかしてくれる」と思い込んでいる子どもたちは「良薬」を飲もうとしないのです。

  「良薬」=「法」
 「良薬」を飲まないことにはいくら名医といえども、子どもたちを苦しみから逃れさせることはできない。
 そこで良医は子どもたちに、「お父さんは、これからよその国に行くから、必ずこの『良薬』を飲むんだよ」という「方便」を使います。
 良医は、自分が傍にいるから子どもたちが「良薬」を飲もうとしないのだと考えたのです。ところが、良医が姿を消しても子どもたちは一向に「良薬」を飲もうとしない。
 そこで良医がどうしたかというと、使いの者を出し、「お父さんは遠いよその国で死んでしまった」と子どもたちに伝えます。つまり、子どもたちが考える「なんとかしてくれる」という対象そのものをなくしてしまったのです。
 子どもたちは、良医であるお父さんに頼り切っていたので、そのお父さんが死んだことを知り、「ああもう駄目だ」と悲しみのどん底に突き落とされます。
 しかし、まさにその時、お父さんが何度も「良薬」を飲むんだよといっていたことを思い出します。そして、やっと本心を失った子どもたちも「良薬」を飲みます。飲むことによって苦しみから解放されるのです。
 良医は子どもたちが治ったことを確かめた上、「私は死んでいないよ」と再び姿を現し、こういいます。
「私がいつまでもお前たちの傍にいると、私をあてにして『良薬』を飲もうとしない。しかし、この『良薬』を飲まない限り、お前たちを苦しみから解放することはできなかったんだよ」と。
 この話が何をたとえているかというと、「良薬」は「法」を表しているのです。
 そして、「仏様に頼っては駄目だよ」「教祖等も偉大ですが、その人をあてにしては駄目だよ」といっているのです。
 頼りにすべきは「良薬」=「法」だということを示しているのです。「法」さえ正しく服していれば、誰に頼ることもないということなのです。
 この世に存在するものは、諸行無常で変化しますから、それに頼ってはいけないわけです。お金とか物とか、名誉に頼ってはいけない。いずれすべて失う日が来るのです。
 けれども、「法」を魂で受け止めるというか、「良薬」として服してさえいれば、いままで頼っていたもの一切を失っても、立派に生き抜いていけるということなのです。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕

(附記)警察庁の統計によれば、日本における自殺者数は平成二十二年から四年連続で減少し、平成二十五年は二万七千人強でした。北さんからのお電話でこのことを知りました。このまま減少傾向が続き、やがて自殺者がいなくなることを私たちは心から願っています。(詩人散歩編集部)