理想の「大往生」                         北 貢一


 人は生まれたからには、早い遅いの違いはあっても、必ず死にます。死から逃れることはできません。
 近代医学は、人間の肉体的な延命に非常に大きな貢献をしてきました。近代科学の発達による、プラスの面はたくさんありますが、どんなに医学や医療や医薬が進歩しても、死を避けることはできません。

  ホスピス病棟での生と死
 二〇〇四年の四月から私は、立正佼成会付属の佼成病院のホスピス病棟で、時間が許す限りお手伝いをさせていただいておりました。今回はホスピス病棟から見た人間の生と死について、お話し申し上げたいと思います。
 ホスピス病棟では、元気に退院される患者さんは、お一人としていらっしゃいません。患者さんに施すのは痛み止めだけです。延命治療はいたしません。ただ、入院してお亡くなりになるまでの時間に長い短いがあるだけです。最長は半年とされております。早い人は、入院して中一日でお亡くなりになります。
 入院直後の患者さんのほとんどは、ものすごい痛みを訴えます。しかし、その痛みはだんだん薄らいで、元気になってきます。お酒を飲みたい人は、ほどほどですがお酒を飲むこともできますし、タバコを吸うことも自由です。しかし、元気になったとしても、死期に、変わりはないのです。
 元気になる方がいらっしゃる一方で、お亡くなりになられる方もおられますので、患者さんの中には、「いずれ自分の番が来るのではないか」と不安におびえる方がいらっしゃいます。こういう悩み苦しんでいる人が少しでも心安らかに、穏やかになっていただきたいということで、宗教を学んできた私どものような者がサポートさせていただいております。
 ホスピス病棟では、常に生死の関係を直視しなければなりません。生の裏側に死があり、死の裏側には生があります。このことを、仏教では「生死〔しょうじ〕」と呼んでいると以前お話しいたしました。

  輪廻する六つの世界
 遥か昔から綿々と続いている生死の関係を「生死永遠」といいます。
「生死永遠」は大きく二つに分けられます。一つは、「凡夫〔ぼんぷ〕(=煩悩に束縛されて迷っている人)」にとっての「六道輪廻〔ろくどうりんね〕」です。地獄・餓鬼・畜生・修羅〔しゅら〕・人間・天上という六つの世界をグルグル回って、永遠に抜け出せずにいる状態です。
 六道の中の地獄・餓鬼・畜生・修羅、この四つの世界は「四悪趣〔しあくしゅ〕」といわれております。つまり四つの悪い世界ですね。人間界と天上界は、六道の中の「善趣〔ぜんしゅ〕」といわれております。迷いの世界である六道にあっても比較的よい世界がこの二つです。
「善趣」でも理想とされているのは、神々の世界とされている天上界です。天上界には三十三の世界があるそうです。そのうちの一つに「人寿〔じんじゅ〕一千年」という天界があるそうです。千年間の寿命がある世界です。
 このような話がございます。天界は病気にもならなければ、お金にも、食べるものにも困らず、努力も何もいらない世界です。人間の世界の苦しみと比べると、天地の差があるそうです。
 ところが、そこで生活して楽しいのは、多く見積もっても三十年だそうです。何の努力もしないまま百年が過ぎて、百五十年くらいになると、さすがに飽きてくる。すると、人間世界の苦しみが恋しくなってくるといいます。
 しかし、それは味わえません。たとえ二百年経ってもまだ八百年残っています。うんざりするけれど、千年間は「人寿一千年」という天界にいなくてはいけない。そうなると、「まだ人間界のほうがましだ」と思うそうです。
 しかし、人間界の苦しみにさいなまれている最中は、そこでの苦しみから一日も早く逃れたい、素晴らしい天界があるのならば行きたい、と望むものなのです。
 なぜ、「人寿一千年」の天界があるのかというと、人間として生を受けている、その苦しみから逃れよう、なんとかしてもらおう、という根性を叩きのめすためだという話もございます。

  死の瞬間に何を思うか
「生死永遠」のもう一つは、菩薩にとっての「願生此間〔がんしょうしけん〕」です。「願生此間」とは、「願って此の間に生まれる」という意味で、『妙法蓮華経』の第十品〔ほん〕(法師〔ほっし〕品)に出てくる言葉でございます。ここでの「法師」とは、菩薩のことです。仏になろうと思えばいつでもなれる菩薩なのですが、願って「此の間」、つまり人間界に生まれてきたということです。
 では、なぜこの菩薩は、苦しみや悩みの多い人間界にあえて生まれてくるのでしょうか。それは、人間界が恋しかったわけではありません。人間界に生を受け、人間らしい生活をして、宗教的なもの、仏教的なものをしっかりと身につけたい。そして、六道を輪廻して苦しんでいる人たちを救うために、悩み苦しみの多いことを承知で、この人間界に自ら願って生まれてくるのです。つまり菩薩は、人のために苦心・苦労しても、それが苦にならない人なのです。
 自己の内心に気づき、宗教の世界に向かって目が開かれることを「回心〔えしん〕」と呼びます。凡夫としての「六道輪廻」から、「願生此間」の菩薩の精神に移ることは、まさしく「回心」です。
 ホスピス病棟でお手伝いしていると、「死」を見つめるためにも心の転換、「回心」が大事なのだと切に感じます。患者さんは、死が近づくと、「ああ、今日死ぬのだな。生きても明日の午前中くらいかな」とわかるようです。そしてその通りになるようです。
 そう覚悟した時の息の引き取り方は実に安らかです。心安らかな人ほどいい死に顔をされております。あやかりたいなぁと思いますが、そのためには、自分がそういう死にざまができるように、わずかの時間でも努力しなければなりません。
 私は苦しみながらでも、息を引き取る間際に「すまなかったね」とか「ありがとう」といえれば、大往生だと思います。何も安らかなだけが大往生じゃない。
 私は、ホスピス病棟においてそういう大往生を見守り、学ぶことができることを、大変ありがたいなと思っております。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕