日本人は「無宗教」か?                        北 貢一


 臨床心理学者の河合隼雄先生が、二〇〇五年三月二十日の「毎日新聞」朝刊のリレー連載「二十一世紀を読む」に「日本的な宗教を生かそう」という記事を書いておられます。大変に興味深い内容でしたので、今回はそこからお話し申し上げたいと思っています。
 「日本人は『宗教』というと何となく『うさんくさい』と思っている人が多い。(中略)そこにオウム事件が起こったりすると、ますます宗教拒否、あるいは、宗教無縁の感じを強くする」と記事にはあります。
 皆様は、「あなたの宗教は?」と尋ねられた時にどうお答えになられますか。恐らく多くの方が、無宗教と答えるでしょう。では本当に日本人は無宗教なのでしょうか。

  自らは気づかない「宗教性」
 外国の方々から見れば、日本人には、クリスチャンらしい人もいないし、仏教徒らしい人もいない。特定の宗教を信仰しているようには見えないのだけれど、話をしている時、あるいは立ち居振る舞いは、日本人独特の宗教性を感じる、と思うそうなのです。一体、どういうことなのでしょうか。
 食事の時、何も意識しなくても日本人は「いただきます」といいます。ある外国人が日本に初めて来た時、「いただきます」と頭を下げ、食事が終わると「ご馳走様でした」と手を合わせる姿を見て、強く日本人の宗教性を感じたそうです。
 また、「お月様」「お星様」「お天道様」等、月や星、太陽まであたかも人のように呼んでいる言葉を聞いてもそう感じるというのです。つまり、誰に対してではなく、日本人は無意識に天地自然のものを人間扱いしているように見えるわけです。
 つまり、自然と対峙してきた欧米人の文化とは対照的に、日本人は自然をより尊く思い、自然に生かされていると感じてきました。特定の宗教はないかもしれないが、心の中には根ざしている宗教性なるものがある、というわけです。これを聞いた時、改めて日本的な宗教性というものは、失われていないんだと嬉しく思いました。
 たとえば、今日雨だとしたら、天気の悪い日と考えます。しかし、これは己(おのれ)の都合であって、本来、雨だろうが快晴だろうが、すべていい日、いいことなのだ、と受けとめられる広い心を持ってほしいというわけなのです。禅宗ではそれを「日々是好日(にちにちこれこうにち)」と呼んでおります。これは、人間に対しても一緒で、人を殺したり、傷つけたり、そんな人間でも、本質はいい人なのだ、という心の教えなのです。

  すべての人が「善」
 こうした教えは、仏教、とりわけ法華経、『妙法蓮華経』のお経でも登場します。以前に、お釈迦様による法華経の説法は、二番目の章である「方便品(ほうべんぽん)」から始まると申し上げました。
 その説法が始まる時、約六千人を超える弟子たちが居合わせておりました。しかし、お釈迦様は説法の第一声を、弟子の中のたった一人、舎利弗(しゃりほつ)にのみ発せられました。
 お釈迦様は「いまから真実を説くけども、お前のために説くからよく聞くんだぞ」と、伝えてから始めます。
 それが「汝がために説くべし」という舎利弗への言葉なのですが、「汝が」ですから、複数の表現はなされておりません。では、その他大勢はどうでもいいのか、と思ってしまいますが、その一人の舎利弗がもとになり、教えが周りの者に伝わり、四人、五人になり……。しかし、全員に伝わる前に、五千人もの弟子は席を立ってしまったそうです。そんな中でも、お釈迦様は、残った千人に真実の教えを説いております。
 そして、席を立ってしまった五千人のために、迦葉(かしょう)という弟子に、「どうか迦葉よ頼んだよ、この席を立った者たちにも、救いの手を差し伸べてあげてくれよ」と伝言をしております。つまり、その後はどうでもいい、というのではなく、縁ある者はみんな、本質的に仏心を持っているんだ、という確信のもとに、お釈迦様は教えを説かれ、そして迦葉にそれを依頼しております。
 これこそ、一人一人を大切にする、すべてを受け入れるという仏教の教えではないでしょうか。

  「天寿」とは何か
 さて河合先生が、ある本で、人間の心はどこまでわかるのか、ということをお書きになられておりました。
 私も、人間の心がわかるようになればいいなと思い拝読させていただきました。では、河合先生の結論は何なのか。それは、「人間の心はわからない」ということだったのです。
 でも結論を読んでよく考えました。本当にわかったほうがいいのか、わからないほうがいいのか……。
 私はわからないほうがいいと考えております。それは私だけの結論ですけれども。たとえば、人間が死ぬ時、死期がわかったらいい時もあるでしょう。でも知らないほうがいい場合もあります。「知らぬが仏」という言葉もあるくらいです。
 いつかはわからないが、必ず訪れるのが死です。いつ何が起こるかわからないことが、これこそ人生なのです。年齢に関係なく順不同、一〇〇%死がやってくるのは間違いない現実であり、厳然たる事実です。
 それを知ったら仏教ではどうするのか。それは、いつ死がやってきてもいい心構えを、いまの元気なうちにつくっておけ、ということでしょう。これが一つの答えだと思います。
 人間の定まった一生を「寿命」「天寿」等と呼びます。ご長寿でお亡くなりになった方をよく「天寿を全うされた」といいますね。では、いくつだと天寿なのでしょうか。
 以前、ある中国の方が、「中国では百六十二歳が天寿」とお話ししてくれました。昔からそういい伝えられているそうです。ということは、天寿を全うすることなんて不可能なのではないか、と思ってしまいます。
 死は年齢に関係なく、残酷なほど平等に、誰にでも訪れます。オギャーと元気に泣いて生まれた赤ちゃんもいれば、産声もあげられずに亡くなる子もいます。親御さん等、この赤ちゃんの死というものを、誰もが受け入れがたい、納得できないと考えるのは自然なことです。この場合、私は、お母さんのお腹から死んで生まれてきたその日、その年が、その赤ちゃんにとって、天寿じゃないか、と思うのです。だから、たとえ短い人生でも、天寿は全うしたんだ。こういう受け止め方をしてあげたいなと、しみじみ感じております。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕