「いい加減」の視野                        北 貢一


 2005年末、世間では「偽装マンション問題」が大きく取りざたされていました。ようやくマイホームを買った人が泣いている中、建物をつくった張本人たちは罪のなすり合いに終始しています。そんな姿を見ていると、まことにいい加減だなと呆れるばかりです。
 この「いい加減」という言葉は「条理を尽くさないこと、徹底しないこと、深く考えず無責任なこと」という意味があると同時に、「よいほどあい、ほどほど」という意味もあります。実は、「ほどほど」という「いい加減」の意味こそ、仏教の「要諦」とさえいえるものなのです。

  「弾琴の喩え」

 「いい加減」をめぐる、次のような説話があります。
 仏陀が、マガダ(摩掲陀)の国の都、ラージャガハ(王舎城)のほとりのギジャクータ(霊鷲山)にいた時の話です。近くの寂しい森で、ソーナ(守籠那)という比丘[びく](仏陀の弟子)が一人修業を続けていました。ソーナは在家時代に琴の名手として知られた修業僧で、その修業ぶりは他の弟子と比べると大変激しいものでした。しかし、一向に悟りに至ることができず、やがて彼の心にも深い迷いが生じ始めていました。
 仏陀は、彼の心の迷いを知って、問いかけを交えながら、次のような教えを残しています。
「ソーナよ、琴を弾くには、あまり弦を強く張っては、よい音が出ぬのではないか」
「さようでございます。といって、弦の張り方が弱すぎても、やはりよい音は出ません」
「では、どうすればよい音を出すことができるのか」
「それは、あまりに強からず、あまりに弱からず、調子にかなうように整えることが大事でございます。それでなくては、よい音を出すことはできません」
「ソーナよ。仏教の修業も、まさに、それと同じである。刻苦にすぎては、心たかぶって静かなることあたわず。弛緩[しかん]にすぎれば、また、懈怠[けたい]におもむく。琴と同様、修業においても、またその中[ちゅう]をとらねばならない」
 その後ソーナは、この「弾琴の喩え」をじっと胸に抱いて、ふたたび修業に励み、ついに悟りの境地に至ることができた−−−というのが、この説話のあらましです。
 これが仏陀の説く、不遍で中正の道「中道」の教えのポイントです。中道とは、禁欲主義にも、快楽主義にも傾かない実践の原理であり、そのためには、極端のどちらにも偏らず、何事もほどよく「いい加減」が一番よいのだという考えです。

  宇宙観測と「加減」

 ある時期、私もソーナのように悩み、苦しんでいる時期がありました。そうした時、知人に「星を見に行かない?」と誘われ、ある天体観測サークルに参加したことがあります。
 そこで見た土星の姿はいまでも忘れられません。土星と、四五度に傾いたリング。まるで麦わら帽子をかぶった丸顔の坊やのような光景に、心底感動したのを覚えています。
 そのうち「地球と土星はお互いものすごい速さで自転しているはず。なのに、なぜこれほど鮮明に見えるのか」と疑問が生まれてきました。会の主催者に質問すると、「星がぼやけず、きれいに見えるのは、その天体が微妙に揺れ動いているのと同様に、地球も微妙に揺れ動いているからです」との答えをいただきました。
 揺れ動く速さが合わなければぼやけてしまうし、合えば鮮明に見える。ものすごい速さでお互いに揺れ動いている惑星同士がきれいに見えるのも、よいほどあい、「いい加減」に動きが同調しているからなのだなと思い至りました。そう考えると、小さな私の悩みもどこかに吹き飛んでいったものです。
 仏教と天文学には、共通点があるのかもしれません。たとえば、地球と月は37万qという距離にあり、地球から太陽までが1億5000万qあることから考えれば、「兄弟星」といわれる地球と月の近さは歴然です。
 しかし、広大な宇宙の中では誤差のような37万qの違いが、この二つの星のありようを大きく違えているのはいうまでもありません。一方は生物が繁栄する「水の惑星」、一方は空気もない岩石の塊。太陽から近からず、遠からず、奇跡的なほどの「いい加減」な位置に地球があったからにほかなりません。日本においては春夏秋冬という、素晴らしい四季さえもたらしてくれました。この偶然には、宇宙の神秘と同時に、不思議な因縁を感じざるをえません。

  「五明」

 それは仏教においても同じ。仏教のみ学んでいればよいというのは間違いでしょう。
 仏陀のいた当時、インドには様々な学問がありました。それは因明[いんみょう](論理学)、内明[ないみょう](宗教学、哲学)、声明[しょうみょう](文学、芸術学)、医方明[いほうみょう](医学、薬学)、工巧明[くぎょうみょう](工芸技術、物理、天文学)の五つに大別され、総じて「五明[ごみょう]」といわれます。
 仏陀も五明を学ばれていました。そう考えると、仏陀も天文学に関して相当な知識を持っていたということは想像に難くありません。その当時、どこまで天文学が発達していたかはわかりませんが、天文学を勉強すれば勉強するほど、仏教を勉強すればするほど、一見異なって見える二つの事柄の共通性に気がつくはずです。
 仏教には「五明」というルーツがあるのだとすれば、後世で仏教を学ぶ私たちにとっても、仏陀が学んだ仏教以外の知識を理解しておかなくては、真の仏教の理解には至らないのではないでしょうか。
 一つのものに打ち込む姿勢は当然大事です。しかし、その目標にのめり込みすぎればすぎるほど、周りの世界が見えなくなり、時には逆の効果を生んでしまうこともありがちです。そうした時、一歩後ろに引いてみて俯瞰して見ることが大事なことなのではないでしょうか。
 自分が「いい加減」、つまり中道を歩んでいるかどうかと判断する基準は次の三条件に求められます。@物事が真理に合致しているか、A自分の自己目的にかなっているか、B他人との関係・調和がどこまでとれているか、この三つすべてを満たしたものが「中道」に値するのではないでしょうか。
 極端は避け、物事一つ一つに「いい加減」に接し、広い知識、広い視野を持った人間を目指しなさい。仏陀もそういいたいのかもしれません。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕