人生という「旅」                        北 貢一


 2005年末に、『サンデー毎日』に政治ジャーナリストである岩見隆夫さんが連載しているコラム「サンデー時評」に、静岡県・伊豆の国市の市長である望月良和さんのお話が紹介されていました。望月さんは子どもの教育に力を入れている市長さんで、特に挨拶と言葉遣いに気を配られていると書かれていました。
 そこで紹介されていたのが「行って来ます」の挨拶についてのお話です。「行って来ます」という言葉は本来「行って帰って来ます」が略されたものであって、行くだけではなく、「帰って来ます」とも相手に伝える大切な言葉と書かれていました。
 人と会った時、挨拶すらしない関係では、人間関係は自然とぎくしゃくしてしまうものです。私は「行って来ます」という短い挨拶に、相手を思いやる心や、人と人との触れ合い、巡り合いの大切さが込められているように感じました。

  なぜ旅は楽しいのか

 この「行って帰って来る」という考えは、実は仏教的な考えと共通しています。
 時に、人生のことを「人生行路」等と呼ぶように、人の一生を旅に置き換えることは多々あります。
 同様にその一生が終わる時、この世からあの世、つまり此岸から彼岸へと旅立つことを「死出の旅」「冥土の旅」等といいますね。仏教的な視点から見ても、まさに人間の一生は「旅」そのものなのです。
 名所旧跡を巡る旅、グルメを探求する旅、旅の楽しみ方は人それぞれです。では、どうして旅は楽しいものなのでしょうか。
 考えるに、それは「行く」前提として「帰る」場所があるからこそではないでしょうか。もし、帰り道に迷ってしまったら、それまでの楽しい旅は一転して不安な気持ちに陥るでしょう。また、帰る場所がなくなっていたらと考えると、これほど悲しいことはありません。

 「行」と「遊」

 悟りの境地に至るための「修行」という言葉に使われている「行」の文字も同様です。どこへ行き、どこへ帰るか。目標とプロセスが明確に定まっていなければ「修行」はつとまりません。行き先や行き方を誤ると元に戻らなければならないし、また、元の場所にすら戻れないこともあるでしょう。
 仏教を学ぶ仏教徒にとって旅の行き先となるのは「成仏」、すなわちお釈迦様のような立派な人格者になることです。お釈迦様が悟った「智慧」を身につけ、「慈悲」の心を持ち、一切衆生を苦しみや悩みから救おうとしたお釈迦様の生涯を見習いながら、自分の人生を実践する、そうした目的地に向かって、日々修行に励むのです。
「修行」というと、一心不乱に修行をする姿を想像しがちですが、決してそうではありません。仏教徒が布教や修行のために各地を巡り歩くことを「遊行(ゆぎょう)」と訳した中国の訳経僧がいました。つまり、本来、修行というのは、遊ぶ時のようなゆったりとした心で行うものなのだ、ということなのです。
 本誌の前号でも述べさせていただきましたが、何事もほどほどに「いい加減」な心を持って物事にあたることが大事です。
 また、仏教には心にまかせて自由自在に振る舞うことを意味する「遊戯(ゆげ)」という言葉がありますが、まさにこの「遊戯」の心をもって修業に臨む「遊行」が大事だぞ、と仏教では説いているのです。
 修行において、神仏や高僧を信じ、その力にすがることを「帰依(きえ)」といいます。帰依することが、仏教徒としての原点であり、帰るべき場所になり、仏教では帰依する場所を「帰依処(きえしょ)」と呼びます。
 この「帰依処」は、「仏・法・僧」の「三宝(さんぼう)」と呼ばれる三つの事柄を指し示します。「仏」は、人生の道理に目覚めた人のこと、つまりお釈迦様を指し、「法」はお釈迦様が説かれた教え、真理を意味します。「僧」は仏教をともに信じて、ともに修行する仲間のことです。日々の生活の中でこの「三宝」を一番のよりどころとすることが、仏教を学び、実践する上で重要なのです。

  「冥土の土産」

 さて、旅を「死生」に置き換えて考えてみましょう。生とは死に向かった旅といえますね。そうすると、「行」と「帰」の関係のように、この世のことを考える時、同時にあの世のことも考えてみる、という「対(つい)の考え」が生まれてきます。
 死んであの世に持っていくものを「冥土の土産」といいますね。しかし、いくら土地や家屋等の財産を持っていても、あの世へ持っていくことはできません。愛する家族と離れたくないからと、一緒に冥土に行ってもらうわけにもいきません。地位や名誉等の肩書も同様です。すべてこの世に残し、自分一人であの世に旅立たねばなりません。
 では「冥土の土産」として持っていけるものは何もないのか。否(いな)、そうではありません。
 それは、あの世に行った時、両親や、お世話になった先輩へ挨拶にうかがったとすれば、すぐにわかるはずです。そこでは「お前はあの世(あの世の人から見れば「現世」)にいた時、どんなことをしてきたのか? 少しでも他の人に喜ばれるようなことをしてきたのか? 他の人に迷惑をかけていたのではないだろうな」と、現世での行いを聞かれるのではないでしょうか。いくら財産や名誉等があったとしても意味をなしません。
 死を迎えて、この世に残った人たちが「よい人だった」「かけがえのない人だった」といってくれるような生き方だったのか。「いなくなってサッパリした」「もっと早く逝ってほしかったけど、なかなか死ななかった」というような評価しか得られなかったとすると、あの世でどう思われるでしょうか。
 つまり、私たちがこの世に生きている間に、どういう人世を歩んだのか、どんな生きざまをしていたのか、その「生活の質」が唯一の「冥土の土産」になるのだと思います。そうした考えを持っていれば、日々の生活をよりよいものにしようとする思いが自然に生まれてくるはずです。
 仏教的に申し上げるとするならば、お釈迦様の「慈悲」と、仏道の教えを学んで身につけた「智慧」、仲間とともに修行を実践して積んだ「功徳(くどく)」。この三つこそが死後の世界に持っていける土産になるのではないでしょうか。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕