「正しさ」の意味                        北 貢一


  ものの見方は様々

 近年、国内外を見ても争いが絶えません。それは皆が自分を正しいと思い、その考えを他者に押しつけるからだと思います。しかし、本当に私たちは「正しい」のでしょうか。そもそも「正しい」とは一体どういうことなのでしょうか。
 たとえば、ここにコップがあるとします。本来なら同じものであるはずのコップですが、上から見た場合と横から見た場合では形が違って見えます。それで、ある人は「丸く見える」といい、また、別の人は「四角に見える」といいます。
 私たち人間は概して自分の視点から物事を考える習性があります。ですから、自分中心の偏った見方をしてしまうことが日常生活においてたびたびあります。
 私たちが車を運転しているような時、横断歩道で歩行者が少しゆっくり歩いているのを見ると「なんであんなにもたもたしているんだろう。もっと早く渡ればいいのに」とついイライラした気分になってしまいますね。ところが、いざ自分が歩行者の立場に立つと、「なんだ、あの運転手は。身勝手な運転をするなあ」と運転手のほうに怒りを感じるようになります。
 このように、立場が変わることによってものの見方も大きく変わってきます。自分の立場に固執するとどうしても偏ってしまい、相手の立場を無視するようなことになってしまいます。これを是正するためには、自分の見方を少し変えて相手の立場に立ってみる、つまり、一歩後ろに引いて、物事を客観的に見ることが非常に大切です。そうすることで、これまで見えなかったものが見えるようになり、他者に対する共感の念が自ずと生まれるのです。
 このことを仏教では「正見(しょうけん)」といいます。文字通り、正しく見るということですね。この「正見」が仏教的な「正しさ」の基礎となります。まず、あらかじめ澄んだ気持ちで物事を見なければ、正しく行動することはできません。

  他者を思いやる心

 とはいえ、正しくものを見、考えることができるようになったとしてもまだ十分ではありません。どんなに真実が見えたとしても動かなければ何も始まりません。そこで今度は、行動すること、つまり、正しく生活することが必要になってきます。
 では、正しい行為とはどのようなものなのでしょうか。それが仏教でいうところの、「正業(しょうごう)」です。「業」とは「行い」のことです。この「正業」に達するためには人間の身に潜む悪を常に意識するようにしておかなければなりません。
 最近、殺人や強盗といった悲しむべき出来事が新聞やテレビ等で頻繁に報道されていますが、仏教は生き物を意昧もなく殺す「殺生(せっしょう)」を固く禁じています。このようなことを守るのは一見簡単なことのように思われます。
 しかし、実際に守ることはなかなか容易ではありません。というのも、「殺生」とはただ単に生き物を殺さないということだけではなくて、ものを大事にするということでもあるからです。これをいま風にいうなら、「もったいない」ということにでもなるのでしょうか。
 ですから、ものを粗末にして、己の欲望のおもむくままに行動すると結局、人のものを盗むようなことになってしまいます。仏教ではこれを「偸盗(ちゅうとう)」といい、前の「殺生」とともに忌み嫌っています。「盗」という字の語源は皿の上にのったご馳走によだれを垂らしている姿だといわれていますが、なんとも浅ましい姿ですね。
 しかし、こんな経験がございます。私が十四歳の時、日本は第二次世界大戦で敗戦となり、焼け野原と化した東京に食べる物などなく、盗もうにも盗むものさえありませんでした。私は空腹を抱えながら、その中をあてもなくさまよっていました。するとどこからともなく声が聞こえてきました。振り返ってみますと、鍋を囲んでいる三人の男性が私を呼んでいました。「一体、何だろう」と思って行ってみたところ、その男性たちは私に茄でたばかりのジャガイモを分けてくれました。
 その人たちが決して豊かであったわけではありません。生活のひもじさは私と同様であったと思います。しかし、彼らは自分たちの空腹を我慢して私に分け与えてくれました。その時に感じた、人間の優しさ、ジャガイモのおいしさはいまだに忘れることができません。
 ですから、ものを大切にし、そして、少しでも余分にあったら困っている人に分け与える。二つあったら、独り占めせず、それを二人で分かち合う。そのような他者を思いやる気持ちが大切だと思います。

  「正しい」生活法

 ところが、最近、日本人の生活が贅沢になったせいもあり、いわゆる「成人病」になる子どもが多いそうです。その結果、成人以後にかかる病気という意味の「成人病」という言葉はふさわしくないということで、いつの頃からか「生活習慣病」と名が改められました。
 この病は不規則な生活も原因の一端のようですが、そうならないためには極端な生活サイクルを避け、自分に最も適した生活法を心がけることが必要です。私自身、これまでの早起きが習慣になってしまったのか、いくら夜更かしをしてもたいてい、朝の五時頃には目が覚めてしまいます。そんな時、自分の生活に占める習慣の大きさを感じます。
 ともあれ、生活リズムを整えることも仏教では正しさの一つです。不健全な生活を送っていると肉体が弱ってしまうように、心も弱ってしまいます。ですから、決して贅沢をせず、質素な生活に甘んじる。そして、必要なものだけを求めるようにする。それが仏教の理想とする正しい生活です。
 そもそも、仏教でいう「正」には、「真理に合った」という意昧の他に「調和のとれた」という意昧も含まれています。
 あまり欲を出さず、身の丈に合った生活を送るという、人間にとってごく当たり前の行為にこそ真の「正しさ」はあるのかもしれません。
〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕