日常の中にある「仏教」                     北 貢一


  合掌に込められた思い

 初めに、手のひらを合わせる「合掌」についてお話しいたしましょう。「合掌」は仏教だけではなく、他の宗教にも用いられております。
 私がかつてインドヘまいりました時、インドの人々は、知っている人であろうとなかろうと、行き交う人同士「ナマステ」と挨拶しあい、その時必ず「合掌」いたします。
 ところが、インドで日本人に時々会ったのですが、せっかくインド人が「合掌」して「ナマステ」と挨拶してくれているのに知らんぷりしているのです。がっかりいたしました。思わず黙っていられなくなりまして、「せっかく合掌してくださっているのだから、礼をもって返してあげてください」と、論してしまいました。
 「合掌」は、相手を心から敬う表現です。仏や先祖、そして行き交う人皆に尊敬の念を表しているのです。
 インドでは右手は清浄、左手は不浄とされてきました。右手を使って食事をし、左手を使って用を足す。その使い分けは厳しく守られています。
 そこから右手は清浄、真理を表し、左手は不浄、煩悩を表します。その両手を合わせ、美しい心と醜い心を一体にして、人間の本当の姿、真実を見るのです。
 よく、片手で片手拝みをする人がいるのですが、仏教徒にとっては失礼なことなのです。掌(たなごころ)を合わせないと合掌になりません。
 さらに、私の右手は皆さんから見ると左であって、見る人によって変わります。このようなことから、仏教では物事を固定してはいけないという教えもございます。

  いろいろな宗教を学ぶこと

 本誌の平成二十六年秋号では「無宗教と日本人」というテーマから、仏教の基本についてお話しいたしました。
 キリスト教は多少かっこいいイメージがあるのでしょう、それに比べ仏教はかっこ悪いという印象があるみたいですね。葬儀、通夜くらいしか縁がない、そんな仏教を信仰するなんて恥ずかしいと。
 しかしながら、宗教的な情操や行為は、日常に根付いているのです。それなのに無宗教が誇り高いという感覚の方がいまだに多数いらっしゃるのは、大変残念です。
 私は仏教を信仰させていただいて、その縁で仏教を皆さんと一緒に勉強させていただいております。そして仏教を深く知るために、他の宗教も学ばせていただいております。
 いろいろな宗教を勉強させていただいているのは、仏教を説きたいからなのです。
 仏教は世界ではどのような位置にあるのかということを知ることは、偏った仏教を学ばないということになります。偏った仏教を人様に説いたのなら、それは仏教ではございません。
 宗教的情操教育は必要であると「教育基本法」に謳われているのにもかかわらず、行われておりません。それは本質的に宗教を説ける先生は非常に少ないからでもあるのでしょう。
 教員免許を得る上で、必ずしも宗教学の単位を必要としていないので、本質的な宗教的情操を先生自体が学んでいないのです。
 特別、宗教について授業中に説くというのではなく、仏教でいうならば一人一人を大事にする「合掌」しあう精神で触れていくことを教えるのが大切なのです。

  日常の中の宗教的情操

 宗教的情操は、漢字の成り立ちからも学べることがあります。
 「美」という漢字があります。ほとんどの漢和辞典には、生贅に使う「羊」が「大」きい、大きい羊が「美しい」というふうに書いてあります。
 それがいつぞや国語学の先生に話をおうかがいしましたら、「大」ではなく「台」、供えものを載せる台つまり祭壇から成り立ったという説もあるのです。「羊」(供えもの)が「台」に載っていて「美しい」。
 つまり美しいということは宗教性を持ち合わせているということなのです。どんなに着飾ろうと、化粧しようと、外見では「美しい」とはいわないのです。内面的に人や自然を敬い、感謝する。そういう宗教的情操を持った人が「美しい」のです。これは非常に仏教的な教えです。
 それから宗教的情操によって養われた「愛」でないと、裏切られた時「憎」になってしまいます。愛が深ければ深いほど、そのしっぺ返しは強烈なのです。ですから仏教では「愛」をあまりよい意昧で使ってはおりません。
 安倍晋三前総理(第一次安倍内閣・2006年9月〜2007年9月)は「美しい国」ですとか「凛とした」ですとか、「積極的な意昧での保守主義」といっておられましたが、はたして深い意味をわかって、宗教的情操の心を持っておっしゃっているのでしょうか。
 「凛とした」の「凛」の漢字の成り立ちをお話しいたしましょう。
 雨が入らないように「ふた」と、「回」は倉庫、「禾」は穀物を意昧しています。そして穀物が一年でも二年でも傷まないように「冷たい」ところでなくてはいけません。つまり「凛」にはピリッと身が引き締まるような冷たさ、厳しい面も持ってなくてはいけないのです。
 では、ピリッとした厳しさはどこから出るのでしょうか。はたして法律という厳しさだけで、国を成り立たせていくのでしょうか。
 お話は変わりまして、私が子どもたちと童話『うさぎとかめ』の「もしもしかめよ……」を歌いました時、非常に興昧深いことがありました。
 歌い終わった後で子どもたちに感想を聞きましたら一人の子どもが、「かめさんズルイ、うさぎさんを起こしてあげなかった」というのです。
 え!と思いましたが、なるほどとも思いました。
 私をはじめ多くの大人は、かめは、うさぎを起こす必要はないと思っておりましたから。
 子どもは子どもなりに、そこに表現されていることを素直に受け止めているのです。「うさぎさんだけ悪いというわけではない」「うさぎさんがああいうことを初めにいわなきゃよかった」「かめさんも受け流せばよかった」「うさぎさんがかけっこはよそうといったほうがいい」……。
 こういったやり取りから、子どもなりの宗教的情操があるような気がいたしました。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕