「座禅」の意味                     北 貢一


 日本に伝わった仏教は、時代によって基本とする考えが違っておりました。
 奈良時代に入ってきた仏教の一宗派である華厳宗・律宗等は、信仰というよりも「学問仏教」として説かれていました。やがて平安時代に入ってきた天台宗・真言宗等は貴族に信仰されたので「貴族仏教」と、さらに鎌倉時代に入ってきた浄土宗・浄土真宗等は民衆レベルに降り「民衆仏教」と呼ばれました。
 今回はその「民衆仏教」の一つ、「禅仏教」のお話をいたします。

  教えは「外」にある

 禅仏教は、禅宗や仏心宗ともいいます。坐禅をしながら、自省することによって悟りを開く宗門です。
 六世紀前半にインドの僧、ボーディダルマ(菩提達磨)が九年間、ほとんどの時間を壁に向かって座り自分に問いかけ続ける、禅問答の修行をして悟りを開いたのが始まりです。これを面壁九年〔めんぺきくねん〕といいます。
 そうしてボーディダルマは禅仏教を開き、中国に伝えたといいます。
 日本では、一一六八年に栄西が入宋〔にっそう〕(中国・宋に行き学ぶこと)し、最初は天台宗を学んでいたのですが禅仏教に出会い、日本に帰国後、禅仏教系の臨済宗を開きました。
 また、一二二三年には道元が入宋し帰国後、同じく禅仏教系の曹洞宗を開きました。さらに時代は進み、一六五四年には中国・明の隠元〔いんげん〕禅師が来日して禅仏教系の黄檗宗〔おうばくしゅう〕を開きました。
 ここに臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、三つの禅仏教が日本に登場したわけです。
 日本の禅仏教は大体この三つに分けられ、武士や庶民を中心として広まることになりました。
 いずれの宗派も「仏教の神髄は坐禅によって直接に体得される」とし、坐禅を蔑〔ないがし〕ろにしては成り立たないとしています。行〔ぎょう〕は坐禅であるので、特別にお経を勧めておりません。これを「教外別伝〔きょうげべつでん〕」といいます。つまり、お経として残っている文字にとらわれない、教えは外にあるということです。
 坐禅を通して、自分の心が澄めば澄むほど相手の心の状況がわかる。己の性〔しょう〕を仏の性〔しょう〕と同じになるよう澄ませれば、相手の心がわかるという教えです。ひたすら坐禅に打ち込む修行を「只管打坐〔しかんたざ〕」と呼びます。

  「まことの場所」とは

 禅仏教では、師匠と修行者が禅問答や問題提起をすることを「公案〔こうあん〕」といいます。修行者の問いに、師匠は問答のやりとりをして正解は申しません。禅仏教は言葉や文字を借りず(不立文字〔ふりゅうもんじ〕)、師の心から弟子の心に伝えること(以心伝心)です。
 自分自身でしか、答えを出すことはできないのです。坐禅をしながら自分自身に問いかけ、静かに己を見つめていく修行です。特に臨済宗は「公案」に重きを置いており、書物にまとめたものに臨済禅師の言行録である『臨済録』のほか、『無門関〔むもんかん〕』『碧巌録〔へきがんろく〕』等があります。
 私がその中から、いかにも禅らしい言葉を一つ選ばせていただくなら「随所作主〔ずいしょさしゅ〕 立処皆真〔りっしょかいしん〕」です。簡単に訳しますと「己の主体性を見失うな」ということです。つまり、あなたが行くところに主体がある。いま私が、あなたがいる場所が実はまことの場所であるという意昧です。
 先日、私が電車に乗りました時、非常に疲れていたものですから座りたかったのですが、一つだけ空いていた席に若い女性が素早く座ったと思ったらお化粧を始めました。おそらく彼女はお化粧をしたくて座ったのでしょう。
 いろいろいいたい言葉がございました。しかし、ここが私が主体となる場所だと思ったのです。つり革につかまり電車の揺れに合わせて体が揺られることで、体のバランス・反射神経が鍛えられると思いますと、立っていることもまた楽しからずやというのでしょうか。そういう気持ちでいると、違いますね。
 参考までに申し上げますと、隠元禅師が開かれた黄檗宗は、念仏を唱えながら坐禅を組む、どちらの行も行う「念仏禅」という特徴があります。黄檗宗で有名なのは、京都の宇治市にある萬福寺で、本尊は釈迦如来です。隠元禅師は前述したように中国から来日し、禅宗の教えを説くことに尽力され日本で一生を終えられました。隠元禅師は中国文化を備えた建物やお茶、料理、いんげん豆等を伝え、日本の文化に影響を与えました。
 特に料理は「普茶〔ふちゃ〕料理」といって、日本の精進料理に発展をもたらしました。山芋でつくった「うなぎの蒲焼き」や、大豆でできた「メンチカツ」。初めて見た時は驚いたものです。視覚的なおもしろさを持つところから、現在、修行とは直接関係なく、日本料理として独自の進化を遂げることになります。

  坐禅せば……

 お釈迦様は、坐禅をして智慧という悟りを開かれたといいます。六波羅蜜〔ろくはらみつ〕(仏教の修行者が修めなくてはならない徳目)にも、第五番目に禅定〔ぜんじょう〕、第六番目に智慧があります。
 禅定の禅は坐禅です。定は正しい慧を得るための基盤となる行いのことです。定には、止〔し〕(無念無想。何も考えない状態)と、観〔かん〕(統一された心による思惟観察。掘り下げて考える状態)の二つの状態があります。
 慧は、知識が実践と結びついた心証体験(物事をよく見極める心と体の働き)のことです。
 ちなみに、定や慧を得るための心身調整を「戒」といいます。身で行う悪、心で行う悪の業を犯していては、定や慧は得られないと、「戒」は示しています。「戒」は仏教でとても大切にされております。
 最後に、禅をすることでどのような悟りに近づけるのか、端的に表した三つの句をご紹介しましょう。
◎坐禅せば 四条五条の橋の上 往き来の人を 深山木〔みやまぎ〕に見て(小乗禅)
 往き来の人を、人と見ずに木と見るのは小乗仏教の考えです。
◎坐禅せば 四条五条の橋の上 往き来の人を そのままに見て(大乗禅)
 男なら男、女なら女とありのままに見るのは大乗仏教の考えです。
◎坐禅せば 四条五条の橋の上 往き来の人と とけ合いのまま(如来禅)
 自分以外のものが往き来しているのではなく、自分も往き来している人も同じ、一体であるという考えを如来禅といいます。
 どれが正しい坐禅の仕方なのかは正解はありません。自分が納得できる考えが正しいのです。
 その自分なりに正しい考えを出すためには、いろいろなものを見て触れて、学ぶこと。あるいは修行すること。これが大切なのです。
〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕