「二辺に偏しない」                    北 貢一


  中 道

 いまから二千五百年前、お釈迦様が、後に菩提樹といわれる樹の下で悟りを開いたといわれております。悟られたものは「縁起(えんぎ)なる法」、縁起といわれる法です。これは仏陀が悟った法ということで「仏法」ともいわれております。
 「仏法」の法門は八万四千の教えがあるといわれています。お釈迦様が悟りを開いて、亡くなるまでの四十五年間にそれだけ多くの教えを説かれたということです。
 かつて、お釈迦様は、本誌平成二十年夏号掲載の「仏教の原点は『現実直視』」で述べましたように、悟りを開かれる前、五人の比丘(びく=出家修行者)=五比丘(ごびく)と厳しい修行をしていました。
 修行後は、五比丘と決別しましたが、悟ったところを誰に説けばわかってもらえるかということで、選んだのがこの五比丘でした。
 そして、お釈迦様が初めて五比丘に説かれたのが「中(ちゅう)」、いわゆる「中道(ちゅうどう)」です。つまり「二辺に偏しない」ということです。
 当時、人々は快楽的な生活を求めていました。楽な生活、贅沢な生活、自分の欲望を満たすことができるような生活を求めていたのです。
 お釈迦様はそれを快楽主義と名付け憂い、快楽主義に偏ってはいけない、そうかといって苦行主義に偏っても悟りを開くことはできないということで、「中」を説かれたのです。
 ちなみに、「中道」の「道」という字は、実践的な表現をする場合に使われておりまして、ただ「中」と使った場合には理論的な表現になります。
 仏教とは何かと問われたら、一言で表現するとすれば、何度も申し上げていますが、「仏教とは『縁起なる法』である」といえます。
 「縁起なる法」を実践的に表現するならば「中道」であるといえます。そして当然、「中道」は『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』の根底となっています。


  法華経の偈

 インドから中国へ伝わり、鳩摩羅什(くまらじゅう)という人が漢訳しました『妙法蓮華経』は二十八品(ほん)で構成されます。
 この「品」という字は現在の書物でいうと「章」に相当すると理解してくださればよろしいと思います。したがって、『妙法蓮華経』は二十八の章で構成されている特定のお経典といえます。
 『妙法蓮華経』は漢字の字数では、六万九千三百八十四字あるそうです。そのお経典の中に「法華経(ほけきょう)」というのが出てきます。
 ほとんどの人が「法華経」という場合、『妙法蓮華経』の略称として使っているはずですが、実際に『妙法蓮華経』の中に出てくる「法華経」は、決して略称ではないのです。
 「長行(じょうごう)と偈(げ)」というのがあります。長い行と書いて、「長行」。これはお経典の散文体の部分です。それに対して、「偈」は詩の部分です。お経典では、初めに「長行」が出てまいります。そして、その後に「偈」が出てきます。つまり「長行」で説いたことを、「偈」によって詩の形でもう一度説いていきます。ほとんどのお経典は「長行」と「偈」という二つの部分で成り立っております。『妙法蓮華経』の七品目に、「この法華経の恒河沙(ごうがしゃ)の如き偈」という表現があります。
 「恒河(ごうが)」というのは、ガンジス川のことです。「沙(しゃ)」というのは砂のことです。ガンジス川は二五〇〇q以上の長さを持つ大河で、そこにある砂の数は一体何粒あるのか、数えようがありません。
 ですから、「法華経の偈」はこの特定の経典である「妙法蓮華経」の六万九千三百八十四文字には合わない。一字一偈だとしても合いません。六万九千三百八十四しかないわけですから。
 では、『妙法蓮華経』の中に出てくる「法華経の偈」が何を表しているのかというと、特定の文字だけではないということだと思います。森羅万象ことごとくが妙法ではないかという考え方ではないでしょうか。たとえば良書も『妙法蓮華経』の中に出てくる「法華経の偈」に相当する。こうなると、膨大な数字となっても決して不思議はないと思います。
 それから「偈」ですから、いい詩はみんな「法華経」をうたった詩だというふうに『妙法蓮華経』の立場からはいえます。
 その他、人を感動させる彫刻は仏像のように、人を感動させる絵は仏画と見なしてよろしいのではないかとなります。
 それから飲食物もそうです。仏教徒は「仏飯(ぶっぱん)」と呼んでおります。飲むもの、食べるものはみんな栄養となり、心の養分となるので、「偈」に相当するのだということです。


  釈迦の五印

 前述したよい彫刻(仏像)を見ると、手の形によって様々なものを表現しています。
 仏教ではそれを「相(そう)」といったり、「印(いん)」といっております。印の上に手をつけて「手印(しゅいん)」、印の下に相をつけて「印相(いんぞう)」と申します。
 釈迦の五相(ごそう)、五印(ごいん)と申しまして、基本的なものがございます。たとえば、右手を上に向ける形がありまして、これを「施無畏印(せむいいん)」無畏を施す、つまり恐怖でおののいている人に安心を与える形です。もう一つ、手を下に下げているものがあります。願いを与える形で、これを「与願印(よがんいん)」といいます。
 また、仏像によって右が上になる場合、左が上になる場合がありますが、手を組み、親指の先が合う「定印(じょういん)」というものがあります。
 さらに、お釈迦様の特徴を表すものに、「説法印(せっぽういん)」というものがあります。どういう形をしているかと申しますと、両方の手の親指と人差し指をくっつける。これで人間の心のこんがらがりを表している。これを「法」によってほどいていく、それを表しているそうです。
 それから、「触地印(そくちいん)」というものがあります。「降魔印(ごうまいん)」ともいい、悪魔を退ける印です。この印は、立像(りゅうぞう)の場合は、右の手が地べたに触れるほどに長いのです。
 あまりたくさん覚えてもしょうがありませんが、この五つの印くらい覚えておけば、仏像を見ても楽しく思えるのではないのかなと思います。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕