必要な戒律は「五プラス一」                北 貢一


 日本仏教の主だった宗を挙げると、十三宗もあるそうです。そして、十三宗がいろんな宗派に分かれていて、トータルいたしますと百五十〜百六十近くあるそうです。ですから、日本の仏教は「十三宗百五十数派」といわれております。
 宗祖の数ほど原典があるため、日本ではどれがお釈迦様の「教え」なのか、どなた様を崇めればいいのかが、わかりにくくなっています。
 その点、東南アジアヘ行きますとすっきりしています。仏教徒は「仏」「法」「僧」の三宝(さんぼう)を崇めますが、「仏」はお釈迦様です。「法」はお釈迦様が説かれた「教え」です。そして、「僧」は「仏」と「法」を学ぶために集う仲間たちです。日本と違って、実にわかりやすいのです。

   袈裟の始まり

 タイ等の僧はある時期、橙色の僧衣を身にまといます。本来であればこの僧衣は、使って使って、洗い古してボロボロになって、もうこれ以上着られないと持ち主が捨てた服を拾いに行って、使える部分を切り取って、つなぎ合わせてつくるものです。
 山に行き、茶色の染料が出るような木なり草なり葉を採って、つなぎ合わせた服を一色に染めて身にまとったというのが「袈裟(けさ)」の始まりでございます。
 ですから、現在の日本の僧衣のように、出来上がった一枚の布でつくるのは、本来の袈裟からは逸脱していることになるのでしょう。ましてや、金欄緞子(きんらんどんす)は仏教徒の風上にも置けないことになるのです。紫とか、緋の僧衣等もありえないはずです。
 結局は、仏教が政治権力と結びついてしまって、特別待遇を受けたことにより、僧の世界でも階級や席順を決めて、上に行くと緋色の僧衣という具合になってしまった。こういうようなことは、本来の仏教らしくないのです。
 一方で、一見して僧とわかることは大事なことだとも思います。「僧というのは立派な人なんだ、人格者なんだ」というふうに周りに見られれば、そういう見方に対して泥水をかけるような行為はできなくなります。そういった趣旨で、僧衣を身にまとうということでしたら、よろしいのではないかと思います。

   仏教は「努力主義」

 とにかく日本仏教の場合、「三帰(さんき)」は多岐にわたっております。
 「不殺生(ふせっしょう)」「不偸盗(ふちゅうとう)」「不妄語(ふもうご)」「不邪淫(ふじゃいん)」「不飲酒(ふおんじゅ)」を説く「五戒」にしてもそうです。何度も申し上げますが、梅原猛さんは仏教の戒律というのは、もともと守れないようにできているのだとおっしゃっています。
 じゃあ、なぜ守れないものをつくったのかというと、仏教は「努力主義」なんだというのです。結果は努力がもたらすのであって、どこまで守れるか、努力することこそが大事で、その結果にこだわってはいけないということです。
 だから、五つ全部守れなくてもしょうがないんだと。ですが、せめて三つだけは守ってほしいと梅原さんはおっしゃっております。つまり「嘘をつかない」「盗まない」それから「人殺しをしない」ということです。
 いまの世の中の災いは、この三つを犯しているから生じているといえます。
 律宗(りっしゅう)は、戒律を主体とする宗派です。明治の時代、ある僧が、律宗には戒律が「比丘(びく=男性の出家修行者)二百五十戒、比丘尼(びくに=女性の出家修行者)三百四十八戒」あるといったそうです……そんなにたくさん守れるわけがない。
 こんなお話がございます。ある僧が、比丘の二百五十戒を守るべく精進したそうです。そしてついに二百五十戒を守りきったそうです。
 その結果どうなったかというと、周りのすべての人に見放されてしまったそうです。とても人間としてのつき合いができなくなってしまったということです。
 それじゃあ、何のための戒律なのか? なぜお釈迦様はこんなに戒律をつくられたのか?
 ある時、初期仏教学者である増谷文雄先生にお聞きしたことがございます。「先生、戒律ってこんなにたくさん必要なのですか?」と。すると、先生は「基本は『五戒』。加えて、その人が守るべき一戒があるだけだ」とお答えになられました。
 その人が「これだけは守らないと皆に見放されてしまう」というような一戒。だから、五プラス一で「六戒」くらいが、多いほうなのだといわれました。
 「では、なぜこんなに多くなってしまったのですか?」とお聞きすると、「人間の顔、形が違うように、守るべき中身は人それぞれ違う。だから一人一戒のはずが、二百五十戒になったり、三百四十八戒になったりしてしまった」そうです。
 ですから、なにもすべてを守ることが、戒律を守ることではないということです。

   女性の戒律が多い理由

 ちなみに、男性の出家修行者の戒律が二百五十なのに、女性の出家修行者の戒律は三百四十八もあるのはなぜでしょうか。女性のほうが百近く多いのは差別ではないかと考える方もいるかと思います。私も最初はそう思ったのです。そういう考え方が仏教にあるのか? と思っていると、そうではないということがだんだんわかってきました。
 むしろ女性を守ろう、保護しようとして女性の戒律が多いという結果を生んでいるということです。
 もっと本音を申しますと、戒律によって女性を保護することは、実は男性の保護を目的としているのです。
 お釈迦様も男性ですから、ご自身を踏まえながら、男性というのはからっきし意気地がないということがわかっています。
 最初にともに修行したのは男性の出家修行者ばかりでしたから、男の弱さをしみじみ感じておられた。女性がいると気が散って仕方がなくなることを知っていましたから、当初は排除するようにしましたが、後に女性の出家を許されています。ですから、女性を排除したわけではなかったことがわかります。
 私の結論は、女性への戒律は男性を守るために必要な戒律だったということです。男性を守ることで、女性も守られていく。お互いに守り合うということです。
 仏教では、男女の差異は認めても、差別はしないということになると思います。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕