「欲望」との向き合い方                北 貢一


 食欲、名誉欲、金銭欲……。人間の「欲望」というものの対象には際限がありません。また、時には争いの原因になったりもします。ケンカの理由をたどっていくと、ちょっとした欲の突っ張り合いだったりすることがままありますね。それが国家レベルにもなると、戦争ということになる。欲望のおもむくままに振る舞うことほど、愚かなことはないのではないでしょうか。
 仏教では欲望への戒めを繰り返し説きます。たとえば『遺教経(ゆいきゅぎょう)』という仏典には「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩もまた多し」という言葉があります。私が敬愛している良寛も「欲なければ一切足り求むるあれば万事窮す」と残しております。

   『欲望という名の電車』

 人間の恐ろしい欲望をテーマとした芸術作品も数多く発表されてきました。たとえばアメリカの劇作家テネシー・ウイリアムズは戯曲『欲望という名の電車』を著しました。映画や舞台で繰り返し演じられている名作です。欲望にかられた野獣のような男によって、人生を狂わされる主人公の女性が描かれていて、「退廃美」と「動物性」を強調した衝撃的な内容は発表当時、大きなセンセーションを呼びました。
 欲望というものは、さまざまな種類があり、その深さは計り知れません。さらにそれが、物欲、色欲にとどまらず、名誉欲、権勢欲等へと高まっていけばいくほど人間としての理性を失い、相手を誹膀中傷し、他人を蹴落としてでものし上がろうとする−−−。
 欲望のままに身をまかせれば、誰でも「暴走電車」に転じかねないのではないでしょうか。いま、その会社の従業員や家族のことを全く考えていないような企業買収のニュース等が世上を賑わしたりしていますが、人問の欲望の空恐ろしさを感じざるを得ません。仏教でも諸悪の根源に欲望があると位置づけ、欲望の断絶・厭離・滅尽を説いているのも当然だと思います。

   悟りをもたらすものでもある

 しかし、欲が全くないことが理想の生き方なのでしょうか。意欲もなく、なんとなく毎日を過ごす。そう考えると、必ずしも無欲の生き方は理想の姿ではありません。適度な「欲望」は人生の活力としてなくてはならないものです。
 仏教では欲望をどのようにとらえているか、もう少し詳しく見てみましょう。
 仏教には、欲界・色界・無色界の三つからなる「三界」という世界観があります。輪廻(りんね)する迷いの世界である「六道」(地獄、餓鬼、畜生、修羅(しゅら)、人間、天上)は、その中でも欲にとらわれた者が住むとされる「欲界」に位置します。つまり、地獄界から天上界まで、迷いの世界である六道はすべからく「欲望」に支配されているのです。逆にいうと、欲望があり続ける迷いの世界に留め置かれるということです。
 一方で、欲望こそ悟りへの道であると仏教は説きます。大乗仏教に究極を表す「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という句があります。煩悩は「欲望」、菩提は「仏の悟り」を表し、この句を訳すと、「欲望が悟りに至る一つの起因になる」という意昧になります。欲望と、仏の悟りは全く相反するもののようですが、実は一体不離の関係にある、一枚の紙の表と裏のようなものだというわけです。
 さて、お釈迦様が欲望について説く時に語るのは、禁欲でも、もちろん快楽でもありません。不偏で中正の道である「中道」の心ということです。無欲ではなく、ある程度の小欲を持って生きよと説き、欲望そのものを否定せず、欲望が生む「対象への執着」を否定するのです。

   欲望を理解する「智慧」

 この世に存在するものは、すべて相対的なものです。絶対はありません。私たちが生きている地球そのものも、太陽や月や他の惑星あっての地球であり、宇宙の視点から見れば相対的存在に過ぎません。私たち人間自体も、また人間が生み出した科学、哲学、思想も宗教も相対的存在にしかず、です。そう考えれば、時々に移ろうものに過ぎないお金や名誉等の相対的なものに執着することは、あまり賢い生き方とはいえません。
 宗教も相対的存在であるからこそ、そこに示される神とか仏とか絶対者と称されるものも、実は相対的な存在です。仏教には実にいろいろな仏陀が存在するのは、こうした考え方があるからでしょう。
 現代社会において人問は様々な問題を抱えて生きています。衣食住から、人間関係、国際関係、世界平和まで問題は尽きません。それらの諸問題のほとんどは、限りない人間の欲望から生じたものにすぎません。欲望は常に私たちの日常生活の中に横たわっているものなのです。
 激動の二十世紀は「欲望によって突き動かされた世紀」ともいえるでしょう。しかし、まだ始まったばかりの二十一世紀は「人権の世紀」として真に人間を尊重する世紀にしたいなと私は思います。人間である限り、欲望を断ち切れないのだとしたら、その欲望をうまく扱うことが真の幸福を導くのではないでしょうか。上手く扱うこと、それが智慧なのです。
 欲望とどのように向き合うべきか、一度立ち止まって深く考えることは、あらゆる事象が「暴走電車」のように速く行き過ぎるいまの世の中だからこそ、とても必要なことだと思います。
 ところで、戯曲王テネシー・ウイリアムズは欲望を電車という乗り物にたとえました。お釈迦様の教えも、乗り物にたとえられます。仏(お釈迦様)の悟りに達するまでの教えのことをブッダ・ヤーナ「仏乗」といいますが、直訳すると「仏の乗り物」を意昧します。法華経では「一乗」とも「一仏乗」とも呼んでいます。この場合の「一」とは、唯一絶対ではなく、地球上に存在するありとあらゆるすべてのものを表します。
 地球を「宇宙船地球号」といった人がいましたが、私たち人間も地球という一艘の船に乗っているととらえれば、個々の存在の尊さを認識し、自覚することができるはずです。そこから、心の中に、あらゆるものに対する「感謝の念」が湧いてくるのだと私は考えております。
 欲望にかられた暴走電車に乗ってしまうか、宇宙船地球号に乗るかは、まさに欲望との向き合い方にかかっているのです。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕