「苦」を乗り越える教え             北 貢一


  宗教の発生

        宗教というのは本来、どんな経緯を経て発生するのでしょうか。宗教の種類は原始宗教、民族宗教、世界宗教と大きく三つに分けることができます。中でも原始宗教は精霊崇拝、自然崇拝といわれます。どの宗教も発生時は精霊崇拝、自然崇拝的なものになります。そしてそれぞれが発展して、民族ごとの宗教が形づくられました。
 インド宗教と呼ばれる「ヒンズー教」は、いまから三千五百〜四千年前、コーカサス地方に住んでいた遊牧民族アーリア人がインドに侵人したことから始まります。
 いまでこそ人間は安全な住まいで快適に生活することができますが、当時の人にとっては毎日が生死をかけた闘いでした。洪水や干ばつで食べ物や飲み水がなくなれば、目的地もわからず求め歩かなくてはいけない。今日は大丈夫でも明日はどうなるかわからない。自然はまさに脅威でした。当時の人々が少なからず「苦」を感じて生活していたことは想像に難くありません。先住民との争いの後、インドに入ったアーリア人は、人間を襲う猛獣や、自然災害を克服するため、空・天・地の自然現象を神格化した神々に祈りをささげました。それらの神々を讃えるためにつくられた聖典が『ヴェーダ文献』です。
 後に『ヴェーダ文献』は長い年月を経て形を整え、古代インドの民族宗教である「バラモン教」として発展します。そこからさらに数百年後、貴族階級にとどまった「バラモン教」が、インド土着の諸要素を吸収して民衆化、「ヒンズー教」に姿を変えました。そこからいまに至るまで、様々な教義や宗派に枝分かれしていったのです。宗教が発生して成立していく過程では、このようなケースは非常に多く存在しています。

  仏教の基本原理「法印」

 宗教には様々な宗派があり、規模も様々です。では、仏教の場合、その根底にある定義とは何なのでしょう。
 「宗教」という言葉は、宗と教との言葉が合わさって形成されています。調べると「宗……教えの中にひそむ究極の理。要義。奥義」「教……それ(宗)を相手に応じて教え説いたもの」(岩波書店『岩波仏教辞典』)と説明されています。「宗」は、語源的にいうと「ダルマ」、漢訳して「法(ほう)」。仏教における教えの中心となるものです。
 また、バラモン教にも「ダルマ」という法があったので、仏教か非仏教かを判断するため仏教のダルマを「仏法のしるし」という意味で「法印」と呼ぶことになりました。これが仏教の基本原理にあたります。ここで語られるのが「無常」と「無我」の自覚です。
 私たちは常に変化する時間と空間の中で生きています。朝と夜、昨日と今日では私たちを包む環境は違いますね。不老不死の生物がいないように、何も変化しないものは存在しません。「法印」としてお釈迦様が説いたのが、この世の中には永遠不変のものはないという「無常」と、物事には固定的な本体がないという「無我」です。
 これらは当然といえば当然の論理ですが、お釈迦様はあえて誰もが納得できるものを「法」として示し、それを信じなさいといいました。仏教ではこれを「法灯明」といいます。また、時にはそれを信じる自分を再確認し、自分自身を灯明にしなさいという「自灯明」という言葉も存在しています。
 政治が乱れ、経済が乱れ、思想が乱れ、宗教まで乱れてしまったとすると、私たちは何を拠り所にしていいのかわかりません。そんな時こそ、仏教でいう「法と自分自身を拠り所にしなさい」という教えを実践すべきなのです。

  人生は「苦」そのもの

 「法印」の一つに、この世のすべては結局「苦」に結びつくという句「一切皆苦(いっさいかいく)」があります。この「苦」をさらに説明する四つの法門が「四諦(したい)」です。
 四諦の「諦」は「明らかにする」という意昧で、その苦しみをどう乗り越えるかが説かれています。
 それが、@人生で自分に降りかかる苦しみを明らかにすることを指す「苦諦(くたい)」、Aその苦しみの原因は何なのか明らかにする「集諦(じったい)」、B苦の原因になる己(おのれ)の心の持ち方を変えることによって、あらゆる苦悩は必ず消滅するという教え「滅諦(めったい)」、C苦を滅するためには、正しく物事を見つめることも大事という八つの正しい道(八正道)を説いた「道諦(どうたい)」です。
 つまり、くさいものには蓋のようにただ「苦」を避けようとするのではなく、「苦」を理解して、時には受け入れることが大切なのです。
 では「苦」とは具体的に何を指すのでしょう。仏教には「四苦八苦」という言葉があります。この「四苦」は、生身の体で生まれたからには逃げられない必然的な苦しみ「生老病死」を指します。たとえいくら素晴らしい信仰者であっても、老い、病気にかかり、最後は死にます。前述の通り永遠不変のものはありません。
 また「八苦」とは、愛する人とはいずれ別れなければならないという苦しみ「愛別離苦(あいべつりく)」、怨み憎む人と出会う苦しみ「怨憎会苦(おんぞうえく)」、貪欲旺盛であれが欲しい、これが欲しいと求めても得られないこと「求不得苦(ぐふとくく)」、総じて心身(五陰)にとらわれることによって生まれる苦しみ「五陰盛苦(ごおんじょうく)」という、人間として昧わう精神的な四つの苦しみのことを指し、前に述べた「四苦」と合わせて「八苦」とします。
 生きていれば様々な「苦」に苛まれます。避けることはできません。その中で、自分の心身は「無常」であり「無我」であると悟れるかどうかが大事です。悟れないとするならば、それは苦に変わる、ということなのです。
 また、生きていれば必ず訪れるのが「死」です。もし余命一ヵ月しかない末期がんと宣告されたら、あなたはどう受け止めますか。受け入れられないとするならば、元気であるいまのうちに少しでも精進して、安らかな心構えをつくるべきではないでしょうか。いかに「苦」を上手に受け入れられるか、これが仏教を学ぶ上で大切なのです。
 要するに、苦とは「思いどおりにならないこと」なのです。思いどおりにならないものならば、思いどおりにしようとしないこと、これが賢明な生き方ではないでしょうか。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕