宗教の共存                   北 貢一


  宗教間の争い

 宗教を大きく二つに分けますと「一神教」と「多神教」になります。神道やヒンズー教等、多数の神々を信じて礼拝する「多神教」に対し、唯一絶対の神のみを認めて信仰する「一神教」があります。その「一神教」で私たちが一番耳なじんでいるのはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教ではないでしょうか。
 はじめにユダヤ教とキリスト教とイスラム教についてお話しさせていただきます。この三つは一神教における「三大宗教」といわれていて、三宗教とも古代の中東世界で生まれました。現在のイスラエルの都市「エルサレム」がその三宗教の聖地とされていて、「聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)」はキリスト教の聖地、「嘆きの壁」はユダヤ教の聖地、「岩のドーム」はイスラム教、正しくは「イスラーム」の聖地です。
 信仰する神は、キリスト教、ユダヤ教にとってはヤハウェ、イスラム教にとってはアラーです。それぞれの宗教の立場から見ると、唯一の神であり、すべてのものをつくりだした造物主として、絶対の力を持っている存在です。なので、他の神を認めることは通常考えられません。同時に、非常に排他的な性質になります。他を譲らない者同士が触れ合い、ひとたび争いが起こるとどうでしょうか。キリスト教とイスラム教による争いがあるのも、そういう宗教的な背景があるからなのです。
 二〇〇六年三月十七日付「毎日新聞」夕刊に、中央大学の真田芳憲教授がこんな記事を寄せております。
 「イスラムは侵略戦争を禁止している。自衛戦争は是認されているのである。ジハードがこれである。イスラムはテロもまた厳しく禁じている」
 つまり、イスラム教にとって「自衛」という名の戦争は許されるということになります。数千人の命が亡くなった「9・11」同時多発テロも、一部のイスラム教徒にとっては「聖戦」です。過激な暴力に発展した「ムハンマド風剌画問題」もそうですが、こんなに酷い宗教間の争いまで、神が是認しているということなのでしょうか。何が正義で何が悪なのか、事実を知れば知るほど「宗教は難しい」、そう感じざるをえません。

  仏教の寛容さを世界ヘ

 一方、仏教では戦争をどうとらえるのでしょうか。
 仏教において戦争は絶対悪です。つまり「不殺生」。仏教における重要な五つの戒律(五戒)にも「殺生をすることなかれ」という戒めがあります。
 殺生の生は「衆生」を意昧し、一切衆生というように、生きとし生けるすべてのもの、命あるすべてのものを示しています。また、仏教には「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という言葉があります。これは、山川草木、つまり植物から自然までみんな尊い命を持っていて、そのお陰で私たちは生かされている、ということを意昧します。
 人間は、魚や肉、野菜を食べて生きながらえています。つまり、自分以外の尊い命を頂戴しないと人間は生きていけない。そんな自分自身の存在をよく理解し、常に感謝の気持ちを持って生きなさい、そうお釈迦様は説かれるのです。
 たとえばご飯を食べる時、手を合わせて「いただきます」という。ここにも「あなたの命を無駄にはしません」という誓いがあるはずです。自分がどんな立場にあるのかをよく自覚して、他の生き物の存在に深く感謝することが大切なのです。

  本当に必要な宗教

 キリスト教はユダヤ教から派生して生まれました。キリスト教から見ると、ユダヤ教の聖書は『旧約聖書』といい、唯一神ヤハウェとの古い契約を意味します。しかし、ユダヤ教の人たちから見ればれっきとした「聖書」であって「旧約」とはいいません。キリスト教にとっては、神との新しい契約(新約)を結んだものがしたためられている我々の聖書こそが新しい聖書(『新約聖書』)ととらえているわけです。
 一方のイスラム教は、「ユダヤの教えを説き直したキリスト教を、さらに完全にしたのがイスラム教である」としていて、イスラム教はすべてを満たしているが、キリスト教とユダヤ教の聖書は満たされていない、というとらえ方をしているのです。キリスト教やユダヤ教が頭にくるのも無理はありません。
 とある会合で、ある大学の名誉教授にお会いした時のことです。私が「争いが生まれるくらいなら、いっそのこと一神教とか、特定の宗教がないほうがいいんじゃないか」といったところ、先生は「この世の中の宗教が全部なくなってしまえばいい」といわれました。
 この先生はかつてカトリックの神父をなさっていた方です。長年ドイツでカトリックについて研究された方ですが、ふとしたきっかけで聖職者を辞めて「還俗(げんぞく)」されました。いろいろ研究をするうちに「ヨーロッパの宗教はどうしようもない」という結果に至ったようでした。それまで一生懸命研究に打ち込んでいて、ふっと一歩引いた時に、そう思われたようです。
 「一度、世の中から宗教をすべてなくしてみれば、本当に必要な宗教が見えてくるんじゃないか」というのが先生の思いです。そんなことは絶対にできませんが、すべての宗教が認め合いながら共存するためには、あながち間違っていない方法なのかもしれません。
 二〇〇六年の八月二十六日から二十九日まで、京都で世界宗教者平和会議(WCRP)第八回世界大会が開催されました。大会には、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教等、各宗教を代表する宗教指導者が参加し、「あらゆる暴力をのり超え、共にすべてのいのちを守るために」をテーマに論議を展開させました。私はこのWCRPの活動に大変期待をしています。
 いくら自分たちが信仰する神を馬鹿にされたとしても、その報復として他人に危害を与えることが宗教の教える真実とは思えません。
 仏教で例を挙げるならば、先ほど申し上げた「山川草木」に対し、常に感謝できるような穏やかな心を持つ。これが続けることができるのならば、いつしか真の平和が訪れるのではないかと思います。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕