「仏教」の基本                   北 貢一


 『月刊リベラルタイム』二〇〇六年十二月号の特集「劣化する日本人」の中に、宗教学者の土戸清さんがお書きになった「無宗教を誇る日本人の不気味」という記事があります。この内容は、宗教を学ばれる皆様に共通して関心のあることではないでしょうか。
 今回は宗教観についてお話をしていきましょう。

  仏教に深い関心を持つ欧米人

 「『あなたの宗教はなんですか?』と、外国に行ったときに聞かれることがある」と記事に書かれています。外国の方は、その人が信じている宗教に非常に関心が深いようです。
 私も海外に行った時、同じように聞かれたことがありました。私は即座に「仏教徒です」と答えましたら、「僕はいま仏教について勉強中なので、いろいろ教えてください」と、仏教に深い関心を持って勉強している欧米の方がいらっしゃいました。
 ところが日本人の多くは「無宗教を誇る」のです。これはいまに始まったことではなく、私が現役の時、三十〜四十年以上前からいわれていました。戦後、教育から宗教を排除したことから始まったのでしょうか。
 この「戦後」という言葉は、実は日本だけが使えるのです。多かれ少なかれ、他国には紛争があり、現在戦争の真っ只中という国もあります。戦争をしている地域に接するほど、平和の大切さ、平和のためにいかに献身していくかを考えさせられます。
 仏教の立場から戦争そして平和を申しますと、武器を持たないがために日本が滅びることがあっても、自分が生き延びるために他者は殺さない、他者を犠牲にしないという考え方です。
 それを聞いたある方は「怖いですね。だって殺されるかもしれないのですよ」とおっしゃいました。
 戦争と仏教に関しまして、マハトマ・ガンジーのお話をしましょう。彼はインド独立の父と呼ばれ、敬虔なヒンズー教徒でいらっしゃいました。ヒンズー教には、仏教の要素が多く入ってございます。最近はヒンズー教徒は武器を持つようになってきましたが、元来は武器を持たない教えです。
 二十世紀初頭、イギリスは巨大な植民地をいくつも支配していました。支配下にあったインドが独立運動を起こした時、その運動の先頭に立ったガンジーは素手でした。何度、牢獄に叩き込まれたかわかりませんし、何度、抵抗運動として断食を行ったかわかりません。そうした非暴力の抵抗運動で、インドが独立を勝ち得たのは有名な話ですね。
 同じような例ではチベットのお話があります。チベットは仏教に敬虔な国です。一応中国の自治区となっておりますが名ばかりで、完全に中国に支配されております。敬虔な仏教指導者ダライ・ラマもインドに亡命してチベットに帰れません。チベットはこういう状況になっています。
 しかし、血は流させない、流さないというのが仏教徒であります。チベットは仏教国であり、国民はそれに従って耐えているわけです。
 本来の仏教は、独立運動のガンジーやチベットのような、争わない、武器を持たない、優劣を論じない。これが仏教の基本の姿であります。

  宗派が幾多に分かれた仏教

 仏教と一口にいいましても、実に多くの宗派に分かれております。
 日本の仏教に限定しますと、西暦五三八年に百済(くだら)から伝わってきて、平安時代には真言宗(しんごんしゅう)と天台宗(てんだいしゅう)。鎌倉時代には浄土宗(じょうどしゅう)、浄土真宗(じょうどしんしゅう)、時宗(じしゅう)、曹洞宗(そうとうしゅう)、臨済宗(りんざいしゅう)、日蓮宗(にちれんしゅう)、法華宗(ほっけしゅう)等、たくさんの宗派が生まれました。
 ですから、いまの日本の仏教の状況を、もし、お釈迦様がご覧になったら「これは誰の教えですか?」とおっしやることでしょう。
 それほどお釈迦様が直々に説かれたとされる初期仏教から、分かれております。私も自信を持って「これが本当の仏教だ」といえません。宗派がありますから、これは○○宗の考えですと宗派をことわっておかないと、それが本来の仏教であると受け止められてしまう危険性があるのです。
 では純粋な仏教はどこに存在するのかといいますと、残念ながらアジアよりも、むしろヨーロッパに行くとあります。仏教を学問として基本から研究しているのです。
 偉大な教えを説かれた開祖たちは、なぜかその教えを文字にして残すことをいたしておりません。
 お釈迦様が悟りを開かれた頃、当時のインドにはもう文字があったのですが、ご自分の教えを文字でお残しになりませんでした。文字になったのはお釈迦様が亡くなられた三百年か四百年も後です。
 キリスト教のイエスの教えも、イエスご自身がお書きになった文字では残っておりません。聖書になったのはやはりずっと後です。
 そのイエスが文字を書いた記録が残っているお話があります。一人の女が罪を犯しました。その女を罰しようと、民衆が女を取り囲みました。その時イエスはかがみ込み、地面に文字をお書きになりました。民衆がイエスに、女の罪について問い続けるので、イエスは顔をお上げになり民衆に向かいこうおっしゃった。
 「あなた方の中で罪のない者が、この女に石を投げつけるがよい」
 いわれてみれば、人は一つや二つ、何か悪さをしているでしょう。悪事を働いたことがない者だけ、といわれればどうでしょうか。もし私がその場にいましたら、やはり石を投げることはできないと思うのです。
 聖書には「誰も石を投げる者はいなかった」と記されています(『ヨハネによる福音書』第八章一〜十一)。
 孔子の『論語』もお弟子が書いたようですし、ソクラテスもお弟子のプラトンが書きました。世の聖人・賢人といわれたような人はご自分で文字に残されなかったのです。

  宗教を感じる

 宗教に関して堂々と、日本人に学んでいただきたい。私はありがたいことに、皆様から仏教について筆をしたためさせていただく機会をお与えいただいているので、真剣に考えて説かせていただいております。
 普段の生活の中に仏教、キリスト教、神道等の教えは入っています。たとえば太陽や月を人格化して「お天道様」「お月様」と崇めるのは神道ですね。日本の行事や伝統には、実はどのような教えが宿っているのか、知ることからも「宗教は学べる」のです。

〔北 貢一著『七歩あるいて読む仏教』(潟潟xラルタイム出版社)から、著者の許可を得て転載〕