[ビジネス縁起観からのメッセージ]      浪 宏友


 会議を闘争の場と心得ている人がいました。自分の提案が通れば勝利であり、通らなければ敗北でした。その人は、なんとしても勝利しなければならないらしく、自分の意見を強引に主張し、反対意見を蹴散らそうとしました。
 この人の意見は、しばしば一貫性を欠いていました。意見の一貫性など、どうでもよかったようです。なりふりかまわず相手の意見を潰し、自分の提案を通すことに、全精力を注ぎ込んでいるのでした。
 たまたまこの会議の司会をしていた私は、運営に苦慮しました。どちらかといえば、なあなあ会議で済ませたかったのですが、そうもいかなくなりました。やむなく議事進行ルールを持ち込んで会議を論理化し、この人の口を封じました。そうこうするうちに予定時間になりましたので、これ幸いと、流会にしてしまいました。
 こういう、よく分からない会議をいくつも経験するうちに、私は、会議について考えざるをえませんでした。

   勉強してみると、会議と言っても、その目的は多様であることを知りました。
 多数決でものごとを決定するという会議は、多様な会議のうちの一つでした。
 意見を交換するだけの会議、情報を交換するだけの会議、業務上の連絡を行なう会議などでは、なにも決定することはありません。
 トップが、意思決定をするために、部下の考え方を聴取する会議がありました。その後、意思決定したトップが、部下に指示命令する会議が開かれました。
 こうしたさまざまな会議が雑然と入り混じり、このため、今、何をやっているのか分からない会議を、私はいくつも経験しました。

 私は、あることに気づきました。
 会議室から出てきた人たちの顔が明るく、熱がこもり、活き活きしているときは、この会議は生産的だったようです。
 会議室から出てきた人々の顔が暗く、苦虫をかみつぶしたような表情をしているときは、会議に生産性がなく、いがみ合って終ったようです。

   生産的な会議を運営するには、どうしたらいいのか、私は考えました。
 私が会議を主催するときは、まず、会議の目的を明確にするように努めました。そして、運営の仕方や決定の仕方を提案し、賛同を得てから内容に入るように努力しました。時間が迫ると、意見交換を終わってもらって、約束した通りの仕方で締めくくりました。
 このような経験を通して、私は、会議というものは、お互いを分かりあうために開かれるべきものなのだと考えるようになりました。(浪)
☆「詩人散歩」平成30年冬号に掲載