[ビジネス縁起観からのメッセージ]      浪 宏友


 私が現役の頃、ある設備を管理していました。大きな上に複雑な設備で、毎月、多額の費用を掛けてメンテナンスを行なっていました。
 ある日、お偉いさんから言われました。
 「この設備は、金が掛かりすぎる。事故も起きていないのに、なんで高い金払って、毎月メンテナンスをやらなきゃいけないんだ。少しは考えろ」
 私は絶句し、同時に激しい憎悪と軽蔑の念が湧いてきました。未熟だったのですね。

   このお偉いさんについて検討しますと、少なくとも二つの要因が見て取れます。
 一つはお金に対する渇愛(かつあい)・貪欲(とんよく)が大きいということです。
 渇愛というのは、激しく執着することです。
 お釈迦さまの言葉があります。
 「みずからは豊かで楽に暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人がいる、−−−これは破滅への門である」(スッタニパータ)
 渇愛の人は、自分が手に入れた財を手放したくないのです。大恩ある父母のためにさえ使いたくないのです。
 貪欲とは、肥大化した欲望、歪んだ欲望です。満足することを知らず、まだ欲しい、まだ欲しいと欲張り続けるのです。
 お釈迦さまはおっしゃいます。
 「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない」(ダンマパダ)

 もう一つは、仏教のことばで「無明(むみょう)」、現代の言葉では「無智」です。本当のことを知らないことです。ここでは「毎月メンテナンスをしているから事故が起きない」という因果関係を知らないという無智があります。
 このお偉いさんは、渇愛・貪欲と無明(無智)によ って、正しい因果関係に反対するという 危険な判 断をしているのです。

 私は、このお偉いさんの言葉を尻目に、多額の費用を掛けて毎月のメンテナンスを続けました。これを怠ると、場合によっては人身事故を起こして、とんでもないことになることを知っていたからです。
 「事故を起こしてもいないのに、なんで多額な費用をかけてメンテナンスをしなきゃならないんだ」という、渇愛・貪欲と無明から発せられた迷言は、私の胸に深く刻まれ、自戒の言葉となっています。
 ニュースでも、渇愛・貪欲と無明によって、間違った行動を起こし、多くの人々を不幸にしている人々のすがたが、数多く報じられています。
 お釈迦さまのことばがあります。
 「愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかし、その罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける」(ダンマパダ)
 自分が、渇愛・貪欲、無明になってしまわないように、気をつけたいと思います。(浪 宏友)