[ビジネス縁起観からのメッセージ]      浪 宏友



 仏教は、事実のみを取り扱います。事実とは、五つの感覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)とそれぞれの感覚の対象、そして意識と観念です。自分が認識できる事実だけを取り扱うわけです。認識できない事実は、取り扱いようがありません。

 現代科学は、ちょっと乱暴な言い方をお許しいただければ、測定できる事実だけを取り扱います。測定できない事実は、現代科学の対象にすることができません。
 取り扱える事実だけを取り扱うという意味では、現代科学と仏教は似ているところがあります。

 現代科学では、事実を測定して、法則を見出し、理論を打ち立てます。理論と測定値の一致が原則です。帰納的な方法と言えるでしょう。もっとも、最近は、理論が先行して、測定が追い付かないというようなことも起きているようですが、基本的なスタンスは変わらないと思います。

 現代科学は、法則を見出し続けます。新しく見出された法則が以前に見出された法則を呑み込んでいくように発展していると、私の目には映ります。法則が日進月歩するのです。

 仏教では、さまざまな理論が説かれています。四つの聖諦・八つの聖道などです。これらの理論は、どれも、お釈迦さまが悟られた「縁起の法」から生み出されたものです。いわば演繹的な理論です。おおもとになった「縁起の法」は万古不易(ばんこふえき)で、永久に変わらないと信じられています。

 現代科学では、ある事実を対象として研究するときには、研究者は観察者となり、研究の対象となる事実を客観的に観察します。そのとき、観察している自分の影響を極力排除します。仮に、自分を観察するときでさえ、観察する自分と、観察される自分を、明確に切り分けなければなりません。観察する自分が、観察される自分に影響を及ぼしてはいけないのです。あくまでも、客観性が必要なのです。

 仏教は、事実を扱うという点では、現代科学と通じていますが、観察する対象は自分自身です。自分が自分を観察して、このままでいいか、直すべきところがあるか、どのように直せばいいかを知り、実行します。その態度は、主体的、内省的と言っていいでしょう。

 仏教における数々の理論は「教え」と呼ばれています。一つは、これらの理論が、演繹的に説かれているからだと考えられます。
 これに加えて、もうひとつ、本質的な理由があるようです。
 本来の仏教徒は、お釈迦さまがお説きくださった「理論」を、主体的・内省的に学び、理解し、実践して、自分を高める修行をします。
 ここから、「自分は、お釈迦さまの“教え”に導かれて人格向上の道を歩んでいる」という自覚が、自然に生じるのでありましょう。(浪 宏友)