【随筆】−「女郎蜘蛛の伝説」               浪   宏 友


 天城山中にある浄蓮の滝は伊豆第一の名瀑と言われていますが,その主は滝壺に住む女郎蜘蛛だと言い伝えられています。
 女郎蜘蛛は本来は上臈蜘蛛だったようです。
 メスの腹部には,黄色に灰青色の横縞があり,側面には赤い斑紋という美しい姿をしていることから,宮中の身分の高い女官を連想していたようです。
 一方,女郎は遊び女のことで,女郎蜘蛛という名前には,男の生き血を吸うような怖い遊女をイメージさせるものがあります。
 上臈が女郎に変わってしまったのは,発音がよく似ていること。メスが大きく美しいのに引き換えオスは小さく褐色で目立たない姿をしていること,女郎蜘蛛が餌を取るときの姿が意外に猛々しいこと,時代の移り変りのなかで上臈よりも女郎のほうが身近になったことなど,さまざまな理由が重なったためなのでしょう。
 浄蓮の滝の伝説では,女郎のイメージと上臈のイメージが錯綜しています。
 むかし,土地の老農夫が浄蓮の滝の滝頭の畑で野良仕事をしていました。ひと休みしていると,投げ出した足もとがなにやらもぞもぞします。見ると,一匹の女郎蜘蛛が,しきりに農夫の足に糸をからめているのです。しばらくそのままにしておきましたが,さて仕事を始めようと立ち上がり,足から外した糸を,切ってしまうのもかわいそうだからとかたわらの桑の木にからめてやりました。
 野良仕事を続けていた農夫はなにやら物音に気づき,ふと見ると,あの桑の木が根こそぎ引き抜かれ,蜘蛛の糸に引きずられて滝壺に落ちていくではありませんか。
 あまりのことにへたりこんだ老農夫は,我に返るとなにもかも放り出して里に逃げ帰りました。
 話を聞いた里人たちは,それ以来浄蓮の滝に近づかなくなったそうです。この話は代々受け継がれていきましたが,時が立つにつれて,切実さが薄れてしまったのは致し方のないことでした。
 それから何年が過ぎたでしょうか。一人のきこりが滝頭の大木を伐っていました。滝のほうに伸びている枝をはらおうとして振り下ろした鉈(なた)が,どうしたわけかするりと手から抜けて,滝壺へ飛び込んでしまったのです。
 長年使い慣れた鉈でしたから,失くすわけにはいきません。下まで降りて着物を脱ぎ,滝壺めがけて飛び込みました。何度もぐっても,鉈はみつかりません。あきらめることなく潜り続けているとき,ふと見ると岩の上に美しい女が立っているではありませんか。
 女はやさしいまなざしできこりの鉈を差し出しながら,この滝の木を切らないでください,ここで私に会ったことはだれにも言わないでくださいと言いました。
 きこりは驚きのあまり声もでないまま,大きくうなずくと,女の姿は消え,きこりの手の中に鉈が残っていました。
 きこりは,家に帰ってから,里人に伝えられている浄蓮の滝の女郎蜘蛛を思い出しました。あの女は女郎蜘蛛だったのだろうか。それにしては,美しくやさしかった,自分をとらえようともしなかった,通りかかった近くの女が鉈を拾ってくれただけなのではないかなどと,あれこれ考えていました。
 ある夜,里の男たちが集まって酒をのんでいました。そのとき,誰いうとなく女郎蜘蛛の話が出てきました。きこりは黙って聞いていましたが,酔いがまわるにつれて我慢できなくなり,自分の見聞きしたことを自慢げに話して聞かせました。
 酔いつぶれたきこりを一人残して皆が帰ったあと,何があったのかは分かりません。翌朝,きこりの話を聞いた里の男がひとり,浄蓮の滝を覗いたところ,そこにきこりの変わり果てた姿をみつけたのでした。  (浪)

 出典:炭酸検協会報(平成18年5月号に掲載)