【随筆】−「辰子姫の伝説」               浪   宏 友


 秋田県の山間部に田沢湖があります。形が丸いのはカルデラ湖のせいでしょうか。直径が6キロメートル,周囲が20kmという規模です。水深は423メートルで,これは日本一だそうです。
 田沢湖畔に辰子姫の像が立っています。辰子姫にはこんな伝説がありました。
 田沢湖のそばに院内岳がありますが,そのふもとに辰子という娘が住んでいました。ある日辰子が川辺に立つと,水面に美しい女性の姿がありました。それは水に映った自分の姿だったのですが,そうと気づくまでにずいぶん時間がかかりました。身の回りには,しわだらけの老人ばかりだったので,自分もまたそのような姿だと思っていたのでしょう。
 自分の美しさに気づいた辰子は,この美しさをいつまでも保ち続けたいと願うようになりました。そこで坂上田村麿が祀ったと伝えられる観音さまに願いをかけました。
 満願の日,観音さまは辰子の夢に現れて言いました。北の山を越えたところに湧き出ている泉の水を飲みなさい。そうすれば願いがかなうでしょう。
 辰子は翌日友達を誘って,北の山に向かいました。途中,友達から離れた辰子は一人で泉を探しました。それらしき泉をみつけた辰子は,早速両手に水をすくって飲みました。すると喉が熱くなりますます喉が乾いたので,とうとう泉に口をつけてごくごくと飲み続けました。気づくと水に映っている辰子の姿は,いつのまにか龍になっていたのです。辰子が驚き慌てると,天地が真っ暗になり、稲光が闇をつんざき、雷鳴が響き、桶の水をひっくりかえしたように雨が降ってきました。そして山が陥没し,そこに現れた湖が田沢湖で,辰子の住まいとなったのでした。
 民話には,示唆的な内容があるかと思えば,つじつまのあわないところがあったりするものです。別々に生まれた説話が入り混じって,いつしかひとつの筋書きになったりするためなのだと思われます。
 この伝説には続きがあります。辰子を探しに来た母親が,悲しみのあまり,持っていたたいまつを湖に投げ込むと,これがクニマスとなって泳ぎはじめたというお話です。
 クニマスは田沢湖だけに生息していた魚で,漁が行われていたそうですが,1940年に水力発電所が完成した後,他の河川から流れ込んだ水によって水質が変化し,絶滅したのだそうです。自然環境の保全という考えが世間に広まる以前には,このようなできごとが数多くあったのかもしれません。
 田沢湖の主となった辰子姫に思いを寄せた男性が二人いました。青森県と秋田県の県境にある十和田湖の主の南祖坊と,秋田県の西側,日本海のそばにある八郎潟の主の八郎太郎です。
 南祖坊は青竜権現として祀られているそうですし,八郎太郎は大蛇を父親とする龍だといいますから,龍の辰子姫に求婚しても不思議はありません。
 もともと十和田湖の主は八郎太郎だったのですが,あるとき訪れた南祖坊に七日七夜の戦いの挙げ句追い出されてしまったのです。日本海の近くにある八郎潟に住み着くようになった八郎太郎は,辰子姫を間にして,再び南祖坊と戦うことになったわけです。
 十和田湖争奪戦では破れた八郎太郎でしたが,今度は勝利を納めて辰子姫と夫婦になりました。権力闘争には破れたけれど,愛は勝ち得たということでしょうか。
 その後,八郎太郎は,夏には八郎潟に,冬には田沢湖にと,行ったり来たりしていました。ところが,1958年に始まった干拓で,八郎潟の広さが5分の1になってしまいました。すっかり狭くなった八郎潟にはとても住めそうにありません。おそらく,今では,田沢湖に住み着いて,辰子姫と幸せな毎日を送っているのかもしれません。(浪)

 出典:炭酸検協会報(平成18年7月号に掲載)